236 99.12.28 「中間省略癖あり」

 出先から戻ると、同僚の苦情が待っていた。彼の不在中に私が残したメモが問題だというのであった。
 「沖氏からTEL依頼」というのがそれである。悪筆であるが、それは織り込み済みの問題である。問題は他にあった。私が出掛ける間際に沖さんから同僚宛ての電話を受け、同僚が不在であったために沖さんは私に同僚からの電話を求める伝言を託し、私はメモによって忠実にその任務を果たした後、外出した、といったような経緯である。ん。あるのか問題。
「あ」
 あった。大問題だ。
「すまんすまん。またやっちゃったよ」
 沖さんじゃない。池仲さんなのであった。
 またしても私は熟語の中間省略癖をやらかしてしまったのであった。
 時々、やる。やってしまう。やっちゃうんだよね。
 筆記すると、時折こういう事態に立ち至る。池仲である。まず、さんずいを書く。ここで筆記の速度と意識との間にずれが生じるのである。意識が先走る。腕の動きはそれについていけない。こうしたきわめて短い時間においては、私は意外にせっかちである。手がさんずいを書き終わった頃には、意識は先に行っていて也やにんべんを追い越している。二文字目のつくりである中を書こうとしている。で、書く。そうして、沖という一文字だけがしたためられる。紙面に残された文字がなまじ漢字としての体裁を備えているものだから、間違いに気づかない。しかも、気が急いている。出掛けなければならないのである。それなのに、自分宛ではない電話を受けて、そのうえ伝言を残さなければならない。必然的に、走り書きとなる。悪いことに、この場合、意識が先走っているのである。
 たとえば「阿部さんからTEL依頼」と書こうとしてこの癖が発揮されたとしよう。こざとへんにおおざとだ。似たようなものが並ぶ。これはすぐさま自らの過ちに気づく。同様に、中間省略の結果が、実際にはあるのかも知れないけれどもとりあえず自分の知らない文字となった場合にも、やっぱり間違いに気づく。今回の沖のようにたまたまビンゴとなった折に、私は世間に迷惑を及ぼすのである。
 同僚にどう対応したかを尋ねると、当惑し類推したのち正解がひらめき、しっかり池仲さんに電話したという。偉い、と誉めると、過去の事例を持ち出してきた。私は以前、「松坂さんからTEL依頼」と書こうとして板さんと書いたことがあるのだそうである。記憶にないが、いかにも私のしでかしそうな失態ではある。
 実際に、筆記の際にはよくやるのである。時期と書こうとして、明と書いたことがある。給油と書こうとして、紬と書いた記憶もある。いかがなものであろうか。
 コンピュータを使って文章を書き慣れているひとなら、思い当る節があるのではないかと思うのだが、とにかく手書きというものはべらぼうに時間がかかる。こちらの意識はコンピュータ慣れした速度で進むのだが、手の動きのほうは居残りで漢字の書き取りをやらされた小学生時分からほとんど進歩がない。手で書くより、キイボードで打ち込んで変換したほうがよっぽど速い。結果的に意識が先走る。書こうとした二文字ではない別の一文字が紙の上に残る。現代病の一種ではないか、とも思うが、それはさすがに思い上がった見解なのではあろう。
 善悪と書こうとして、恙と書いたこともある。善くも悪くもツツガムシだ。快晴と書くつもりが、情と書いたこともある。情けないことではある。
 心配なのは、この性癖が進行するのではないかとの一点に尽きる。私はいつか渋谷駅と書こうとして、単に沢で済ませるのではないか。候補地と書こうとして他と書いて終わりにしてしまうのではないか。あの谷底の街は確かにいにしえには単なる沢だったのであろうが、やはり沢はまずかろう。候補地が他のところになっては困る関係者の方々もいるだろうから、これもまずかろう。
 さらには、電気保安協会を雲の一文字で片付けてしまいそうな自分がこわい。
 あまつさえ、核戦争防止国際医師の会を桧の一文字で省略したアカツキにはどんな天罰が下るのであろうヒノキチオール。
 同僚にそうした不安を打ち明けたところ、「馬鹿」とのことであった。
 ううむ。この二文字は中間省略し難いな。

←前の雑文へ目次へ次の雑文へ→
バックナンバー 一覧へ混覧へ