235 99.12.10 「怖くない怪談」

 運転している自分ひとりしか乗っていないはずの車である。私は誰も乗せていない。乗せていない、はずであった。車にはたいがいバックミラーといったものが備えつけられており、私の車にもその鏡は装着されている。後部座席に誰かが座っていれば、その姿が映る。
 しかるに彼は、いったいいつのまに乗り込んでいたのか。気づいたときには、バックミラーには後部座席に座る彼のお姿が映っていたのである。
「ま、幽霊ですから」
 と、見覚えがあるような気がしないでもない小柄な初老の男性は、仰るのであった。
 ふむ。幽霊ならば、その神出鬼没もそれなりの合理性に裏打ちされているといえよう。しょせん幽霊のやることだから、いきなりそのお姿を現したとしても、べつだん咎め立てすることもなかろう。
「申し遅れました。私、小川です」
 幽霊さんは、礼儀正しくお辞儀するのであった。
「あ、これは御丁寧にどうも」私も自らの姓を名乗って返礼した。
 どうにも妙な具合である。幽霊の知り合いができたのは初めてなので、どうしていいかわからない。やはり、支持する政党と好きな球団の話題は御法度なのであろうか。私は戸惑うばかりである。あは。あはははは。と、空笑いをかましつつ、当たり障りのない話題から入ってみた。
「ゑゑと、小川さん、どうしてまた、こんなところに」
 私としては、疑義を呈さざるを得ない。よって、当然の疑惑を口にした。が、小川さんの御気分をいくぶん害してしまったようであった。
「ははあ。やっぱり憶えておられないのですね」
 幽霊の小川さんは、バックミラーを介して、恨みがましげに私を見つめるのであった。
 ん。なになに。ゑ。なんだなんだ。あ。どうしたんだどうなってるんだ。小川さん、あなたはなにか私に含むところがある、とでも。
 あるのであった。
「半年ほど前のことですがね」
 と、幽霊の小川さんは、語り始めるのであった。都内でタクシーの運転手をしていた小川さんは、ある夜、有楽町において、茨城県は取手までという長距離の客を乗せた。その客を送り届けたのち、都内に引き返す途中で事故に遭った。急に飛び出してきた犬を避けようとして路肩の電柱に激突し、あえなく昇天した、というのであった。
 晩婚であった小川さんは、まだ大学一年生である息子の将来が気掛かりでならない、と、しみじみと語るのであった。妻の美津子さんの行く末も心配でならない、と、さめざめと泣くのであった。
「それが、半年前のことだったんですよ」
 その暗転の夜に、小川さんがはるばる送り届けた客こそがこの私である、と、小川さんは語るのであった。そうか。そうであったか。あの夜の運転手さんが小川さん、あなたであったか。
 その夜のことはよく憶えている。私には、大枚二万円をはたいてもなんとしても帰宅して明朝四時に起床せねばならない事情があった。都内に宿を求めて翌朝始電に乗り込んだのでは、約束の時刻に間に合わなかった。やむなく深夜長距離タクシーという非常手段を採択せざるを得なかった。
「あ。思いだした」野人である。「レッズの話をしたんですよね」
「そうそう」小川さんは儚げに微笑んだ。「岡野は、息子に似てましてね」
「そうでしたよね。髪型はそっくりだけど、鈍足だって」
「うんうん。子供の頃からね、運動会を嫌がってね」
 と、幽霊の小川さんは、泣くのであった。
 やはり未練を断ち切れないのであろう。だからといって、なにゆえに私の許を訪れるか。私は、その真意を伺った。
「いやまあ、幽霊の恰好じゃ、妻子の前に顔を出せんでしょう。死んだとはいえ、私にもプライドがあります」
「ふうむ。そういうものかもしれませんねえ。でも、だからといって、なぜ私のところなんでしょうか」
「いやあ、他に化けて出るとこがなくて」
 おいおい。「ゑゑと、その。それは、ちょっと」
「あなたは、私が生前最後に会話を交した方だから、化けて出るのも妥当かなあ、と」
 ぜんぜん妥当じゃないぞ。「あのう、それはちょっと迷惑なんですけども」
「そうでしょうねえ。すみませんねえ」
 小川さんは、ぺこぺこと頭を下げるのであった。卑屈な幽霊という存在はいかがなものか、と思うし、そもそも幽霊に対していかなる立脚点をもって「存在」といった概念を適用すべきか、とも思う。幽霊は、迷惑である。
 私の知ったこっちゃない、といえば、ないのだが、それではあまりに人情という概念に対して申し訳ないだろう。
「ま、そういう事情じゃ、しょうがないでしょう」私としては、小川さんを容認せざるを得なかった。が、こちらにもこちらなりの立場がある。「で、いったいいつまでそうして未練がましく幽霊稼業を続けるつもりなんですか」
「そうですねえ。どうしましょうかねえ」
 と、言われても。
 ……以上は、私の作り話であり、つまりその、ゑゑとなんだ、あれだよ、あれだってば、だからさ、そのう、怪談である。ちっとも怖くないのが、特色となっている。
 私としてはあくまで怪談のつもりであり、助手席にひとを乗せる機会があるたびに精一杯の臨場感を漂わせて物語るのであるが、誰もいっこうに怖がってくれないのである。私に唯一備わっていない才能といえば、それは怪談をつくる能力である。なお、「唯一」という言葉の意味を辞書で調べるのは法令によって禁じられているので留意されたい。
 怖くない怪談、というものは、それ自体が矛盾に満ち満ちている。
「だからさ、そういうわけで、リアシートに幽霊の小川さんがいるわけなのよ」私はこれみよがしにバックミラーに視線を転じる。「やっほー、小川さん。今日の調子はどう? 元気?」
 といった、能天気な言辞で締めくくるのが敗因かもしれぬ。幽霊に元気はなかろう。つまるところ、誰ひとりとして怖がってくれやしないのである。ちぇ。つまんねえの。
 どうも、付き合う人間の傾向が固定化されているのが、私の不幸並びに幸福であると思われる。私の渾身の怪談を聞き届けた者は、なにかしらボケようとするのである。
 曰く、「そっか。オレのクルマには佐藤さんがいるんだよ。じゃ、あれだよ、こんど四人で麻雀しようぜ」
 するものか。
 曰く、シートベルトを外しながら後方に振り向いて、「あ。小川さん、初めまして。オレはコイツとは小学校で新入生のときに机を並べて以来の付き合いなんすけどね、いやあ、コイツはいつかは幽霊に取り憑かれる奴だと思ってましたよ。なんかコイツはオクテでねえ。いやもう、めでたいっす。思う存分、取り憑いてやってつかあさい」
 つかあすなって。
 曰く、なんのつもりか助手席から降りてわざわざ後部座席に陣取り、なにもない隣の空間に向かって、「あらあら、小川さんですか。初めまして。奇特ですわね。でもね、だめですよ、こんな貧乏神に取り憑いちゃ」こらこら。「幽霊だったら、もっと取り憑き甲斐のあるひとに、ばーんと取り憑かなきゃ。」こらこら、と言うておろうが。「ほんとにもう、こんな小者に取り憑いちゃって。小川さんたらもう。もうもう。タクシーの運転なさってたんですか。だったら、このひとがおかしな運転をしたら、たしなめてやってくださいよ。このひとは脇見運転が得意なんですよ」
 そりゃあ、小者だけどさ。脇見運転は、けして得意じゃないぞ。それは単なる習慣だ。
 と、そんなふうに、例によって屈辱にまみれた日々を送っていたところ、私の怪談に反応してくれたひとが出現するのだから、世の中はわからない。わからないものである。わかったためしはないが。
 仮に、田島さんとしておこう。ったって、そういう名なのだが。とある会合が終わったあと、田島さんというそのハタチ前後と思われる女性を送り届けるハメになったのであった。「あんた、帰り道でしょ。送っていってあげてよ」と、誰かに言われて、彼女を助手席に乗せたのであった。
 初対面の田島さんは、しょっぱなから妙だった。落ち着かない。そわそわしている。しきりに後部座席を気にしている。
「誰か、いますよね」と、真剣な口調である。
 いねえよ。と、ぶっきらぼうに言い放ちたかったが、そこは私もそれなりに年降りたオトナであり、うら若きオトメには一応ものやわらかく接しておくにこしたことはなかろうと考え、不必要に快活な口調で言い放つのであった。
「いるわけないじゃない」
 が、そのあとがよくなかった。ついうっかり私は付け足してしまったのである。「小川さんなんて」
 しまったしまった。いかんいかん。が、アトノマツリというやつである。
「あ。小川さん、っていうんですね」田島さんの声音になにかしら力強さが加わった。「うしろの座席にいらっしゃる方は、小川さんっていうんですね」
 いないって、小川さんなんて。それはね、架空の人物なの。オレのでっちあげ。でっちあげて三十年、丁稚奉公の時分から長年かけて磨き上げたオレのでっちあげ、なのよね。
 などと、おちゃらけていればよかったのかもしれない。が、私には図に乗るという取り返しのつかない性癖がある。ここぞとばかりに、うかうかと例の「怪談」を語ってしまった。初対面の方にそのような戯言を語ってどうする。ええい、この口か。この口なのか、そんなデタラメを言うのは。と、内心では人格が分裂気味の私なのではあった。
 田島さんの反応は気味が悪かった。「そうですか。それで小川さんはあんなに哀しそうなんですね」
 はあ?
 なんだろ、このひと。
 ちょうど赤信号にさしかかり、クルマを停めた私は横目で田島さんに視線を注いだ。あ。駄目だこりゃ。いっちゃってる。成田のホテルでミイラになるタイプといったところか。
 やだなあ。なんでこんなひとを乗っけちゃったんだろ。その後、私は最小限のことばしか語らず、よそよそしい態度に努めるのであった。やっぱり怖いのは、死んだ奴より生きてる奴だ。こらこら、シートベルトを外すんじゃない、田島。身体ごと振り向いて、誰もいない後部座席に語りかけるんじゃないってば。
 ようやく田島さんの家に辿り着いたときには、心底ほっとした。
 いやはや、こういうひとがいるから宗教法人はやめられないのだろう。おいおい、誰もいない後部座席の空間と握手して涙ぐむんじゃない。いいかげんにせい、田島。
 たいへんつれない態度をあからさまにして、私は田島さんをクルマから追い出した。急発進してバックミラーを覗くと、田島さんは大きく手を振っている。やだなあ。
 私は制限速度という概念を無視して、大急ぎで田島さんをバックミラーの中から振り払った。生きてる奴は、ほんとに怖い。
 後日譚があるので、更に心はくじける。田島さんは、その前日に亡くなっていたのだそうである。そのように伝えてくる輩があったのである。
 そこまで大がかりにボケるのか、我が友人たちよ。なにもそこまで仕組まなくても。わかったわかった。いつもいつもでっちあげてばかりのオレが悪かった。だからといって、田島さんのような「女優」を手配しなくても。
 今回ばかりは私も少々反省した。身から出た錆、といったところなのであろう。自業自得なのであろう。
 そうして本日、ふとバックミラーを覗いた私の目に映ったのは、後部座席に並んで座る小川さんと田島さんであった。
 ふたりとも、そんなににこにこと笑うなってば。無言で笑うなってば。
 私は、ある一線を越えてしまったのかもしれない。

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