047 96.07.05 「一円玉と私」

 かねてよりの疑問について本日は更に思考を加えてみたい。私が更に思考した場合、当初の思惑とはまるで違う世界に漂着することが多い。理解が深まるとか疑問が氷解するとかといったなんらかの生産的な方向からはどんどん離れていく。あげくの果てには、どこか別な場所で新たな疑問に直面し、困ってそのまま寝てしまうことになる。
 こんなテイタラクではいかんのではないか。と、思い立った。
 考えてみよう。
 疑問とは、なぜ一円玉を使用できる自動販売機が存在しないか、というものだ。
 一円玉の入手経路は、たいがいお釣りというかたちをとる。一時に入手される個数は最小0個最大4個である。平均すると2個である。このあたり、我ながら完璧な推察である。ゑへへ。一日平均2軒の店で買物をして、その結果4個の一円玉を得るとする。一週間で28円であり、一ヶ月の時が流れると清涼飲料水を1缶購入できる計算になる。しかし、一円玉を110個持っていても、自動販売機の前ではひとはおしなべて無力なのだ。なんの役にも立たない。1個の百円玉ともう1個の十円玉が喜々として活躍するのを横目に、110匹のワンちゃんは、じっと唇を噛みしめることになるのだ。110円が110円の価値を持たない。
 私は衷心から皆様に御忠告申し上げたい。現金で1億円持っているひとがいたとしても、それが1億個の一円玉でないことを確かめてから借金を申し込んだほうがよい。その千円は1キログラムのアルミニウムである。その百万円は1トンのアルミニウムである。借りちゃだめだよ。
 私の場合、時々財布の中から一円玉を取り出して空になったペットボトルに入れているのだが、これがまた異様なスピードでいっぱいになってしまう。買い上げた金額の1の位がどうであろうと、百円を最小単位として支払うからだ。結果的にお釣りに一円玉が含まれる。一円玉が財布の中にたくさんあっても、ぴったり支払えるようにひいふうみいと数える気にはどうしてもなれない。時間がかかるからだ。うしろに並んでいるひとに気兼ねしちゃって、できない。こういうとこで、私は気が弱い。ぱっと多めの金を出して、釣りはそっちで考えてよ、とレジのひとに問題を委ねてしまう。
 なんというか、スーパー・コンビニにその消費生活のほとんどを捧げているという哀しい日常が明らかになってしまって、少々うしろめたい。うしろめたいが、まあそれはしょうがないので現実を直視すると、一円玉で充満した数本のペットボトルの置場所に苦慮する私がいる。ほんとにどう処理していいのかわからない。募金という手段があるが、そこまで能動的にはなれない。引き取りに来てくれるなら、喜んで募金するが。同様の理由で、預金もする気にならない。銀行まで持参するのはあまりに面倒だ。たいした金額ではないし。結局、流通すべき補助貨幣が、流通しないで私の部屋で無意味に滞留している。
 そうして思うわけである。自動販売機で使えれば、と。私にはどうも対人恐怖症のケがあるらしい。情けない話だが。自動販売機だったら、遠慮なくゆっくりと硬貨を投入できる。大量の十円玉はこうして消費される。もっとも、自動販売機であろうと、うしろにひとが並んでいたらすぐさま十円玉の投入はやめてしまうのだが。
 なぜ一円玉が使える自動販売機がないのだろう。ざあっと投入して勝手に数えてくれても構わないのだが。8枚や9枚は投入した実数と違っていてもいっこうに気にしないから、なんとか実用化してくれないものだろうか。私は煙草のみなので、できれば煙草の自動販売機でやってほしい。なんとかならないものだろうか。
 と、疑問を更に思考するどころか、その前段階について語ったところで、もう飽きてしまった。私としても思いも寄らなかった展開だが、まあ私という人物はそういういいかげんな輩だ。呆れ返って頂きたい。いずれまた話題にする機会があるかもしれないが、ないかもしれない。私の今後の言動は、私には予想できない。
 ところで、五円玉も役立たずだよなあ、と思う。

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