032 96.06.09 「冷蔵庫に九谷焼」

 九谷焼の茶碗という物体が、ここにある。
 石川県は九谷地方でつくられた磁器が、九谷焼だ。国語辞典にそう書いてあった。詳しいことは知らない。
 茶道業界方面で使用されるものらしい。食器としてはあまり役に立ちそうもない形状だ。高価な物らしい。逸品、というおことばであった。叔父がそのようにのたまわった。「おまえもそろそろ、こういうものを持っていてもいいだろう」との突飛な見解である。わけがわからない。なにがそろそろなのであろう。
 そんなものを私が所有しても無駄ではないか。茶道にまるで興味がないし、こうした磁器を鑑賞する見識もない。
 一方で私には、くれると聞くと、あとさきを考えずに頂いてしまう情けない性癖がある。すかさず手が出て、ぺこぺこしてしまう。からだがいうことをきかないのだ。「いやだいやだといいながら、ここはこんなになってるじゃないか」状態。
 貰ってしまった。
 豚に真珠、私に九谷。
 当然、なんの役にも立たない。酒を注ぐには大振りだし、肴を容れるには深すぎる。そのうえ、彩りが酷い。なんだよこの悪趣味な金色はよう。しょうがないので、買ってきたばかりの梅干しを入れて、こともあろうにラップをかけて冷蔵庫にしまっておいた。つまりは道具なので使わないのは損だ。この梅干しは肉厚の南高梅で、たいへん高価なものなのだ。九谷焼も本望であろう。とはいえ、叔父が聞いたら卒倒するに違いないが。
 というようなことはすっかり忘れて、いつものように浮かれた日々を送っていたら、いきなり嵐がやって来た。突然の叔父の来訪だ。近くまできたので、とかなんとか何気ない振りを装っている。私は恐慌状態に陥った。敵は私のおむつを代えたことがある。こちらのやりそうなことはなにもかもわかっているのだ。室内を見回して、ほう、けっこう綺麗にしてるじゃないか、などと言う。例の物件を探しているのだ。抜き打ちの家庭訪問なのだ。敵は台所にずかずか踏み込んで、主に食器棚を眺め回した。こんなところに置いておいたら承知しないぞ、とでも言いたげな態度だ。
 うわあ。参ったなあ。もっと酷いところに置いてあるのだ。
 もはや家庭訪問どころじゃない。家宅捜索だ。明るく正直に話して呆れさせるという奇襲を思いついたが、叔父の性格を考えると、やはりこれは危険すぎる。
 ごまかすしかない。
 だが、敵はこちらの思惑を見透かしたように、喉が渇いたな、何か冷たい物はないか、と言った。言いながら、もう冷蔵庫を開けている。素早すぎる。
 ごまかせなかった。
 やはり、こちらの性向を熟知しているひとにはかなわない。叔父はくるりと振り向き、静かな声で言った。
「なんだ、これは」
 もちろん、突き出されたその手には、くだんの茶碗がある。
 笑おうとした。笑えなかった。反射的に茶碗を受け取ろうとした。手元が狂った。茶碗が床に落ちた。砕けた。梅干しがころころと転がった。
 ああ、ニュートン先生、これが万有引力の法則なのですね。
 私は思わず、致命的な一言を吐いていた。
「あっ、梅干しがっ」
 その後の悲惨な顛末について語る気力は、まだない。

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