031 96.06.07 「八木さんの法則」

 「野菜が安い冬は、火事が多い」「空梅雨には、性犯罪が横行する」「衆議院が解散すると、羽根布団がよく売れる」といったところが全盛期の八木さん語録だ。なんだかわけのわからない法則を、八木さんは唐突に披瀝する。
 八木さんは無任所で、普段は仕事がない。なにか揉め事があると出向いて行って、その年輪と話術で穏やかに解決してくる。社内でひとりだけふわふわと宙に浮いている。みんながしゃかりきになってシゴトをしているところにふらふらと現れて、ぼそっと「衆議院が解散したんだってね。羽布団が売れるなあ」などと言いだす。
 どうしてですか。なんでそうなるんですか。と、訊けば、八木さんはとうとうと説明してくれる。立て板に水、って実はちっともぴんとこないけど、まあそんな感じ。話題はあちこちへ跳びまくり、最後には縁なしの眼鏡を右の人指し指でずり上げながら「そういうわけで、そうなるんだ」と、八木さんは皺だらけの顔ほころばせて断言してくれる。
 その場では妙に納得してしまうのだが、あとから考えるとぜんぜんつじつまが合わない。つまり騙されたわけだが、それが楽しい。
 飲みに行くと、八木さんは銚子一本を空ける間に、「八木の法則」をひとつ解説してくれる。衆議院の解散から、南米の軍事政権へと話が飛ぶ。その後、土星、熱海、ヒマラヤなどを淀みなく転々とし、清少納言の主張、北上山地の酪農事情、百貨店業界の内幕などに触れ、二丁目のやぶ芝の鴨せいろの美点、営業部の書庫を破壊した真犯人といった卑近な話題も盛り込みつつ、ふと気づけば、いきなり羽根布団が馬鹿売れすることになっている。風が吹けば桶屋が儲かる式のむちゃくちゃな論理展開が延々と続くのだ。
 しかし、八木さんの話術は、聞く者に矛盾を感じさせない。ゆっくりと話すのだが、独特の間がある。聞き手は八木さんの考えたとおりに八木さんの言葉を理解する。そして、次はどうなるのか、という点にだけ関心が集中してしまう。それっておかしいんじゃないの、なんて疑問が湧いてこない。話が続いている間だけだが。八木さんの話が一段落してから、あらためてその内容を反芻して初めて、あまりにずさんな展開だったことに気づくのだ。
 そういう法螺話を聞きたくて、よくくっついて歩いていた。入社したての頃だ。いっぱい飲ませてもらった。一緒に仕事をすることはないのに、仕事が終わると行動を共にしていた。八木さんも法螺話はしたいらしく、こちらを いいカモだと考えていたふしがある。喜んで奢ってくれた。
 月日が経ち、次第に八木さんの立場は微妙なものに変わっていった。八木さんの仕事ぶりが思わしくなくなったのだ。魔法のような調停能力が失われてしまった。噂話を聞くと、なにかといえば「私が」と言うらしい。「私が説得します」「私が責任を持ちます」云々。そんな無茶な発言で揉め事が収まるわけがない。普段なにも仕事をしていないだけに、風当りは強かった。
 思い当るふしはあった。間遠にはなったものの、依然として夜の法螺話は続いていたのだ。八木さんの法則は変化しつつあった。「俺が散髪に行くと、銀行強盗が起こる」「俺が宿酔いになると、円は暴落する」。「俺」が登場することが多くなった。解説の法螺に、飛躍が乏しくなった。
 居辛くなったのだろう、やがて八木さんは定年前に退職していった。法螺話を聞くこともなくなってしまった。
 通夜の席で、ついつい我慢できずに訊いてしまった。出入りの激しい席で、ふとした偶然に、八木さんの奥様と私だけが、仏間に取り残されたのだ。
「末期の法則、というようなものは、おっしゃっておられましたか」
 いやはやなんとも、こともあろうに私はなんという質問をするのだ。
 答えるほうも答えるほうで、初対面の奥様は、くすりと笑った。私のことは八木さんから聞いていたらしい。気配でわかった。同類項なのねえ、とでも言いたげな素振りだ。
 奥様は、含み笑いをしながらおっしゃった。
「俺が死んだらイナゴの大群がやって来る、と、申しておりました」
 私は思わず吹き出した。奥様もつられて笑った。
「酷い出来ですね」
「ほんとに」
 ふたりとも、遺影に目をやった。ずうっと、見ていた。

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