005 95.11.09 「霞ヶ関ビル一杯の幸せ」
霞ヶ関ビル5杯分とか東京ドーム14杯分とか、ニュース番組では膨大な容量をそんなふうに表現しますね。この夏に出荷されたビールの量とか、江東区で集められる一日のゴミの量とかを表現するための比喩です。あれ、ちっともぴんとこないんだけど、そう思うのは私だけですか。
まあ、ペットボトル150000本分の廃液とか言われても途方に暮れてしまうだけなので、ビルだか球場だかにお任せしてしまうんでしょうけども、その結果わかりやすくなったかというとそうでもないんじゃないかなあ。相変わらず実感できないことに変わりはないと思うわけです。自分の理解できるような尺度に換算しようとしてみるんですけど、そのうちに頭がこんがらがっちゃうんです。
そもそも、いまだに霞ヶ関ビルを目安にしているのが謎です。どうして都庁を使わないんでしょう。杯という単位も不思議ですね。建築物がとつぜん容器になっちゃう。だいたい私は、「霞ヶ関ビルと東京ドーム、どっちの容量が多いでしょうか?」という質問をされたら、確信を持って答えられません。東京ドームのほうですよね。きっと。たぶん。おそらく。だんだん自信がなくなってきちゃうなあ。よく考えてみたら、私は霞ヶ関ビルを見たことがないんです。都会に不自由な人なのでした。
こういう言い換えの意図は、なんだかよくわかんないけどともかくいっぱいなのだたくさんなのだものすごいのだ、というあたりにあるように思うんですね。驚いてください、と暗に言ってるような、ね。そうじゃないのかもしれないけど、一視聴者としての私はそう受け取ってしまうわけです。この時点で私にとっては客観的な報道じゃなくなってしまうんですが、私は報道に客観性を求めてはいないので、それはそれでいいんです。ただ、ぴんとこないので困ってるんです。もうちょっと、わかりやすい比喩はないもんでしょうか。
ないんだろうなあ。あったら、使われてるもんね。
で、どうせ実感できないんだから、ひとを驚かせることに専念してほしいと思うわけです。小錦が全人生で絞り出すうんこの半分のゴミとか、火野正平がこれまで放出した精液と同量の覚醒剤とか。
あ、だめ? そりゃそうか。
だったら、「いっぱい度」というのをマスメディア方面で設定してくれるといいかもしれません。こんなにいっぱいなんだよ、というのを度数で示してくれたら、どれだけ驚けばいいのかわかって有難いわけです。震度みたいなやつですね。
「このビールの量は霞ヶ関ビル8杯分にあたります。FNNの測定では、いっぱい度5に相当します」なんて報道してくれると、「ほう。けっこうたくさんあるじゃん。いやあ、こりゃすごいわ」というような感想を抱くことができて、安心するわけです。自分なりに納得できてなんらかの見解を持てることが、視聴者にとっては重要なんです。報道された事柄の内容よりも。
「この土砂の量は東京ドーム3杯分です。NHKでは、いっぱい度2と判定しました」と言ってくれると、「さすがNHK。慎重だなあ」とひとりごちたりして悦に入ることができますね。「今回の事故で流出した放射性廃棄物は霞ヶ関ビル1杯分です。ANNでは、いっぱい度7と認定しました」などと報道された日には、「たたたたたた、たいへんだあっ」と驚愕してひっくりかえったりすればよいわけです。自分ではなにも考えなくてもいいんですね。便利だと思うんだけどなあ。
決めつけてください押しつけてください、というような、なんだか情けないような態度みたいですが、だっていちいち考えるのめんどくさいんだもん。どれくらい驚けばいいのかはそっちであらかじめ決めといてくださいよ。だって、そのニュース、おれには関係ないんでしょ。ね、そうだよね。
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