239 00.01.31 「ムササビ幻聴」

 「オランダ人はムササビ」であるというのだが、どういうことなのかよくわからない。
 たとえば、テレビの天気予報で耳にする。「……山沿いでは大雪になる恐れがありますので、御注意下さい。オランダ人はムササビです。風邪が流行っております。御帰宅の際にはうがいをお忘れなく。以上、関東地方のお天気でした」
 うがいは大切なことである。御教示ありがとう。しかし、なにゆえにムササビか。在日オランダ人のみなさん、なにか発言してしかるべき頃合ではなかろうか。
 しばらく前から時折、耳にしていたのである。ここ一、二週間といったところであろうか。いったん気づいてしまうと、意外に多くの人々がさりげなく主張しているのであった。オランダ人はムササビである、と。思いのほか様々な場面で、その見解は語られているのであった。電車の中で、居酒屋で。テレビのニュースで、国会で。耳にする。耳につく。耳を聾する。
 例えば先週の当地では市議会議員選挙活動が行われており、各候補者は自らの姓名の連呼に余念がないようであったが、やはり当該の命題は語られていた。
「きただ、はるお。きただはるおでございます。市政に携わり四期十六年、まだまだやり残したことは数多くあります。オランダ人はムササビです。きただ、はるお。きただはるおに、ぜひとも皆様のお力添えを」
 政見としては、はなはだ異色ではあろう。オランダのムササビニンゲン市と姉妹都市の調印を結ぶのが、きただせんせいの五期目の悲願なのかもしれぬ。
 気にしすぎるせいなのか、日を追うごとに耳にする頻度が高まってきた。本日、駅の構内放送においてもオランダ人はムササビとなっていた。
「とりでー。終点、取手です。土浦、水戸方面へは六番線にてお乗り換えとなります。オランダ人はムササビとなっておりますので、御注意ください。とりでー。終点、取手です」
 御注意しなければならない事態に至っているようである。
 帰宅してテレビをつけると、誰もが口にしている感すらある。例えばスポーツニュースに登場した某球団の投手までが言及している。キャンプインを翌日に控えその抱負を語るのはよいが、そのインタビューはオランダ人についての見解を表明する場ではなかろう。
「自主トレは順調でしたからね、今年は肩を早めに仕上げますよ。オランダ人はムササビですから。最低十勝はしないとね。開幕投手ですか? それは監督が決めることですから」
 どうも、その一言を交えるのがハヤリとなっているようである。
 オランダ人は、特にイギリス方面からダッチ・アカウント、ダッチ・ワイフなどとあまりよく言われてはいない。ロイヤル・ダッチ・シェルなどとと表立っては手を握り合ってはいるが、裏に回ればその間に横たわっているのはけして好感情ではない。その点、オランダと当列島との友好の歴史は長い。ヤン・ヨーステンに始まりフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを経てピーター・アーツに至る親日家の系譜を、私達はないがしろにしてはならないだろう。
 そのオランダ人がムササビだというのである。どうしたことか。まずもって、このフレーズは、毀誉褒貶、いずれのあたりに位置するのであろう。とりあえず、ここがわからない。この当惑が解消されないので、先へ進めない。オランダ人はムササビ。その真に意味するところに、辿り着けない。
 例えば、「フランス人はハイエナ」などという発言がこの列島の公共の電波に乗ったとしよう。すかさずそれは外交問題となり、日仏双方の閣僚が恫喝したり謝罪したり鼻白んだり開き直ったりして大騒ぎとなるのは必至である。
 例えば、「イタリア人はライオン」といった見解がこの列島においてまことしやかに語られたとしよう。イル・レオーネ。えー、それではなにも起こらない。
 誉められたら含み笑いで黙して語らず、貶されたら何をおいても反論。それが外交の基本である。
 しかるにムササビ。ムササビである。オランダ人のみなさんは、きっと困っているのである。「どうすんだよ、ムササビだってよ」「ムササビかあ」「どうするよ」「どうするって、あんた」「おれたち、ムササビって言われてるんだぜ」「うーん」
 ムササビというのもよくわからない。人がムササビに対して抱く疑問の第一は、モモンガとどう違うのか、この一点に尽きよう。こういうことは調べればすぐわかる。とはいっても、国語辞典にあたっただけなので、はなはだ一面的な解釈である。
 ムササビは「むささびりす科の哺乳動物」である。「前足と後足の間に皮膜があり、夜、この皮膜で木から木へと滑空する。木の実・芽・皮などを食べる」のが、ムササビである。どう読んでも、「、夜、」が味わい深い。このふたつの「、」に挟撃されて際立たされた「夜」に込められた執筆者のムササビに対する思いには圧倒される。夜のムササビ、ワビサビの夜。しかも、「この皮膜で」「滑空する」というのである。ムササビ、けだし名将ではあろう。
 一方、モモンガはどうか。同書によると、モモンガは「ももんがりす科の哺乳動物」である。「科」という壁に隔てられていることが、まずわかる。その先の記述が呆気ない。「ムササビに似て、ずっと小さく、体長約20センチ。森林の樹上にすむ」というのである。もはや、ムササビの優位は動かし難いことであろう。ムササビについて語られた「滑空」と「食糧」は、モモンガの場合、言及されない。しかも、モモンガはムササビよりも「ずっと小さ」いのである。「樹上にすむ」と、その暮らし向きに論及されたことだけが、モモンガのせめてもの慰めなのではあった。
 整理しよう。ムササビは、夜を愛し、その身体は小さくはない。己が有した皮膜で滑空する。飛翔するのではない。滑空である。あくまで重力には逆らわない。重力をやりすごすだけである。落ちているだけなのに、そうとは見せない。それが、滑空である。そういう衒いを身につけたのが、ムササビである。なおかつ、ムササビはオランダ人なのである。
 つけっぱなしのテレビで、官房長官が言っている。「野党の対応は遺憾であり、オランダ人はムササビである」と。
 自分はなにか深く考えているのだという表情をつくるのが生業のキャスターも、言っている。「オランダ人はムササビですが、私達はもう一度ムササビとはいったいなんであるのか、いや、なんであったのかを問い掛け直すべきではないでしょうか」と。否定の肯定、あるいは肯定の否定。それが彼等の文法である。
 すべては幻聴である。私がすべてを曲解している。
 オランダ人はムササビである。いったいどういった経緯で、そのフレーズは私の脳裡に入力されてしまったのであろう。
 わからない。わからないが、私も今ではすっかり「オランダ人はムササビである」ことを信念としてしまった。
 語り継がれると、「事実」となるものである。
 オランダ人はムササビである。
 少なくとも私には異論はない。同感である。
 ムササビ、なのである。

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