238 00.01.23 「大浴場の大人物」

 その大浴場で、がしがしと身体を洗っていたところ、問題の人物は私の隣に出現したのであった。アベシンヤ、という名であるらしい。幼稚園児と察せられるこの輩が手にしていたプラスチック製の小さな籠には、マジックでその名が記されていた。百円ショップでよく商われている粗末な籠であり、ボディソープやシャンプーの類が詰め込まれている。姓はアベ、名はシンヤ、そういった人物が私のとなりに陣取ったのであった。
 温泉とはいえ、街なかの健康センターといった趣である。実際に温泉ではあるのだが、地質学だかなんだかの発展した昨今、温泉は大都会のまんなかであろうと狙いを定めて掘れば出てくるものである。街なかにあるので、ほとんど銭湯的に利用されており、察するにアベシンヤは常連と見做して差し支えないようであった。経営者側も温泉でありながらその市場を鑑みたのか、あえて銭湯的なアプローチを試みている。銭湯にしてはきわめて高価だが温泉としてはきわめて安価な入浴料でその娯楽を提供しており、その結果シャンプー石鹸タオルの類はそっちで用意しな、ウチでも売ってるけどちょいと高いよ、といったすがすがしい態度を貫いているのであった。
 そうした背景があり、常連は自らの入浴必需品を持ち込むのが常態となってる。アベシンヤの場合のように、その親が息子が持ち込むそれに彼の名を記すのも、当然の知恵なのであろう。
 が、シンヤは、常連と呼ぶにはいささか心許ない態度を示すのであった。どうやら湯温の調節がままならないらしい。レバーをいじくり回して途方に暮れている。
 その保護者は、いったいどこにいるのだろうか。シンヤには、当然存在してしかるべき同行者に助けを求める風情がなかった。やがて諦めたらしく、隣にいた赤の他人の助力を乞うことにしたようである。
「ねえねえ。もっとつめたくしたいの」
 人見知りをしない性格を保有しているらしい。尋ねれば人は答えてくれると思っているようである。今どき、貴重な存在ではあろう。
「それはだな、こうやるんだ」私は、湯温調節のなんたるかを彼に教示した。
「わー。できたできた。ありがとー」
 どうも、無邪気とか天真爛漫とかいった要素が、アベシンヤの人物像の大半を構成しているようであった。子供である。
 が、シンヤは子供と呼ぶにはいささかためらいを覚えずにはいられない特性を有していた。懸案の突起物の大小がオトコの価値を定めるものならば、シンヤはもちろん大人物である。私は視線を自らの下腹部に落とし、やはりオレは小者であったのだなあ、と再確認するに至ったりするのであった。
「裸の英雄アベ、というわけだな」
 うっかりひとりごちたところ、シンヤは耳ざとく聞き咎めた。
「えーゆー?」
「あ。いやすまん」私は赤面した。「くだらん戯れ言だ。忘れてくれ」
「えー、のつぎは、びー、だよ。ゆー、じゃないよ」
 突飛な反応である。Aの次はBである。こう見えても、私もそれくらいは知っている。その次だって知っている。なんと、こともあろうにCというのだ。更に驚いたことに、そのまた次にはDなるものが不気味にその存在を主張しているのである。
「おう、そうだな。えーの次はびーだな」
 私が迎合したところ、シンヤはとたんに得意げな態度をあからさまにした。
「うん。そうだよ。えー、のつぎは、びー。えーびーしーでーいーえふ」そこで、はたと詰まった。「えふ、えふ、えーと」
「ほうほう、えふの次はなんだ」
 シンヤはしばし思いあぐねた後、不意に破顔して叫んだ。「げー」
 ん。げー、ね。「んー、そうだな。げー、な。ま、それもよかろう」
「ゑ。ちがうの?」
「いや、違うかどうかはわからん。オレが間違って覚えているだけなのかもしれん」
 ちょうど私は身体を洗い終えており、そろそろ湯に浸かりたかった。そそくさと会話を断ち切り、湯船へ向かった。
 が、アベシンヤという輩は妙に人懐こいのであった。私が湯に浸かりながら、晩飯はなにを食おうかなと考えていると、じゃぶじゃぶとやってきて、私の隣にちょこんと腰を据えた。
「じー、だよ。じー」喜々として報告に及ぶのであった。「げー、は、まちがっちゃったの。じーえっちあいじぇーけー」
「あ。そうだな」私は、Zまで朗々と語りそうなシンヤを慌ててさえぎった。「そうそう。よくできました」
「ゑへ」シンヤは喜ぶのであった。
「おまえさ」私は尋ねてみた。「おとうちゃんといっしょに来たんじゃないの」
 気になるところである。先ほどからのシンヤはずっと単独行動である。
「さうな」と、シンヤは答えるのであった。「いちじかんくらい、はいってる」
「ははあ。サウナね」
 シンヤの語るところによると、彼の父はサウナに悦楽を求めるひとのようであった。その間、息子を放置しておくということは、つまりこの父子はかなりこの浴場に通いつけていると考えてよかろう。息子がこの場を熟知していることを承知しているからこそ、自らはあの扉の向こうにある高温度高湿度の部屋に安心して身を委ねていられるのであろう。
 が、そうなると、場馴れしているはずのシンヤが湯温調節をできないのが謎である。それは、しごく簡単な操作である。その点をシンヤに問い質すと、呆気ない回答が得られた。
「んんとね」照れくさそうであった。「おぼえらんないの」
 であるか。なにかを身につけるまでに時間がかかる質らしい。私は共感を覚え、しばらくの間シンヤと他愛ない会話を交した。ポケモンがどうしたこうしたとかいった話題であり、私としては空白地帯の知識を埋める、といった展開となった。
「あ。おとうちゃんだ」不意にシンヤが、立ち上がった。「おとうちゃん、こっちこっち」
「おう」
 息子の呼び声に相好を崩したその人物は、小柄だが筋骨隆々であった。猪首に乗っているのは笑顔になってさえも精悍な顔立ちであり、頭は角刈りである。
「皆さんに御迷惑をお掛けしなかっただろうな」
 湯船に入ってきた父は息子にそう問い掛けた。言葉自体は重々しいが、口調は情愛に満ち溢れている。私は当惑を覚えていた。その姿、そ、その物言いは、ひょっとして。
「してないよ」シンヤは無邪気に答えた。
「そうかそうか」
 父は目を細めて息子の頭を撫で、次の瞬間、別の意味で目を細めて訝しげな視線を鋭く私に見据えた。ひええ。そのスジの方であったか。その二の腕にとまってる揚羽蝶ね、そういうものを彫り込んだ方は「お断り」の場ではなかったのでしょうか。
「おゆをの出しかたをおしえてくれたんだよ」
 父の懐疑を嗅ぎとったのか、シンヤがすかさず私という人物との関わり合いを解説した。
「そうでしたか」父はとたんに警戒を解き、きっちりと頭を下げた。「息子がお世話になりまして」
「あ。いえいえ。べつに、そんな」
 小者の私は慌てて立ち上がり、恐縮した。この類の方々は、どうしてそんなに「きっちり」するのであろう。それに、低くてひび割れた声音だし。それは「威圧」なんだけどなあ。
 私のそれも、恐縮していた。小者だから。そうして、その父の股間を眺めながら、遺伝というものはこういう突起物にも現れるのだなあ、と感じ入るのであった。
 その後、どうしてそうした顛末に至るのか今もってよくわからないが、三人で父子馴染みの焼肉屋にいるのであった。父と私はビール、シンヤはウーロン茶を呑んで、談笑していたりするのであった。御馳走されてしまう私なのであった。
「シンヤ、ちょっと火が強いな」
 父の言葉に、シンヤはロースターのレバーをいじり、予想通り失敗した。火は消えた。
「やっぱり、そうなったか」
 父と私は同時におなじ言葉を口にし、顔を見合わせ、苦笑した。
「あれ。あれれれ」
 シンヤは首をひねっている。思惑通りにいかないコトの成り行きに、合点がいかないらしい。
 シンヤという輩には、こういう微妙な操作を遂行する能力が欠落しているようであった。その事実が決定的に露見した。訓練の意味で、父はあえてシンヤに炎を調節させたもののようである。
 父はいわくありげな含み笑いを、私に送ってきた。「こういう奴なんですわ。いくら教えても憶えやがらない。ひとつ御指導してやっちゃくれませんか」といったところであろう。
「それはだな、こうやるんだ」私は、炎調節のなんたるかを彼に教示した。
「わー。できたできた。ありがとー」
 どうやら、そこで他者によって得られた結果に満足してしまい、次にもう一度自分がやるときのことに思い至らないのが、シンヤの問題点であると思われた。
「どうですかね」こういう奴は、と父が訊く。
「いますよ、こういう奴は」ここにもうひとり、と、私は答えざるをえない。「でも、まあ、なんとかかんとかやってますよ」
「ふむ」父は、不得要領であった。「そんなもんですかね」
 どう答えてよいかわからず、私はビールを呑み干した。父は、その瞬間、私を「論外」と見做したようであった。
 父は息子の性格に不満を憶えており、私はしょせん他人事でもあるし「ひとそれぞれだからしょうがないんじゃないの」と思っている。
 オトナ同士のそういう隙間風にまるっきり気づかないのが、シンヤという輩の真骨頂である。
「このかるび、やけてるよ」
 にこにこしながら、頃合に焼けたカルビを、私の小皿に置いてくれるのであった。
 大人物ではあろう。

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