077 96.10.30 「されどカレー」

 その昔、ライスが多けりゃライスカレー、カレーが多けりゃカレーライス。って、コピーがありました。
 一方、カレーがごはんの上に載っているのがカレーライス、ごはんがカレーの上に載っているのがライスカレー、という誰もが耳にした冗談もありました。
 更には、カレーを全面にかけるか半面にかけるか、といった論議もありました。
 つけあわせには何が相応しいか、我々は無批判に福神漬けを信奉してはいまいか。そういった討議も、しばしば耳にするところです。
 ソースをかけるか醤油をかけるか、マヨネーズや卵もイケルよ。などという論戦も尽きません。
 専門店のX倍カレーの根拠はなにか。肉の選択はいかにあるべきか。そもそも、肉が必要か。具の選択に美学はあるか。タマネギ信仰の是非はどうか。市販のルウを使用するのは恥ずべきか。ターメリックは本当に必要なのか。ごはんは邪道でナンを用意するべきなのか。小麦粉カレーは本邦に何をもたらしたか。カレーうどんは許せるがカレーラーメンは許せないのではないか。カレーとごはんをぐちゃぐちゃに混ぜるのは恥ずべきことか。レトルトパックの功罪とはなにか。よそのウチのカレーはどうしてうまいのか。キャンプといえばなぜカレーなのか。子供がカレーを好きだというのは幻想ではないか。チャダは今どうしているか。
 などなど。などなどなどっ。
 カレーは論議を呼ぶものです。カレーについて一家言ない人はいないのではないか、そんな気もします。論議の大半は水掛け論で、要するに各人それぞれ好きなカレーを好きなように食ってりゃいいんですが、まあそこはそれ、そういう愚にもつかない論議を戦わせるのは、そりゃあなた、楽しいじゃないですか。
 もはや私達に、カレーのない生活は考えられません。ま、そんなことを考えたことのない人ばかりだったりしますが。あ、考えてはいけません。さみしくなっちゃうよ。
 さて、ここにまたひとり、カレー論議に新風を巻き起こした傑物がいます。ここでは仮に彼を杉田玄白さんとしますが、杉田玄白さんは思いも寄らない見地からカレーについて熱く語るのでした。杉田玄白さんは、カレーを食する状況の、それも終盤戦に着目しています。慧眼といえましょう。
 カレーを食べていますね。だんだん皿の上のカレー及びごはんの量が少なくなってきます。そのときのごはんとカレーの比率について、杉田玄白さんは思考するのでした。カレーが余る人とごはんが余る人、あるいはカレーが足りない人とごはんが足りない人。まあどっちでもいいんですが、人はこの二種に分けてしかるべきと杉田玄白さんは力説します。諦念が刻み込まれた眉間の皺を心持ちほころばせながら、杉田玄白さんは自説を滔々と語るのでした。
 杉田玄白さんは、ごはんが足りなくなるタイプであったと自らの過去を告白しています。しかし、昨今はカレーが足りなくなりつつある、自らの人生観が変容しつつあるためであろう、とも述懐しています。不惑を迎えた杉田玄白さん、通り過ぎていく時間に微かに抗いながら、冷静に自らのカレーライスを見つめているのでした。
 そうなんでしょうか。ふつう、途中で無意識に調整してカレーとごはんはほぼ同時に食べ終わるもんじゃないのかなあ。おかずとごはんの配分制御は、誰もが身につけている習性ではなかったのでしょうか。
 杉田玄白さん、相当無器用かもしれません。ああ、このペースで食べてるとカレーが足りないな、なんて、食べてる最中に考えないのでしょうか。ずいぶん不思議な人です。北条氏政タイプといえましょうか。
 カレー。こんなに私達の生活に密着しながら、まだ異邦人扱いです。カレーパン、カレーまん、カレースパゲティ。外様に外様を掛け合わせておきながら、まだ私達は知らんぷりです。
 私達は、まだカレーの真髄を理解できていないんでしょうね、きっと。
 ママの味、までは辿り着いています。
 あと一歩。あと一歩で、おふくろの味です。
 論議を呼ばなくなったその日こそ、私達がカレーと一体化する日なんでしょう。
 その日を待ちながら、杉田玄白さんと私は、縁側でカレーライスを食べながら愚にもつかない論議を戦わせて遊んでいることにしましょうか。
 たかがカレー、されどカレー。なんて、つぶやきながら。

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