056 96.08.02 「あわれさんま先生」

 甥の勘太郎が、泣きついてきた。こやつは5年生になるというのに、泣き虫でいかん。喧嘩をして敗北したもののようであった。
「うぎゅぎゅぎゅぐ。ぐしゅぐしゅ」
「まあ、存分に泣け」
 もちろん敗北は悔やむべきことでも恥ずべきことでもないのだが、そんな気休めは通じない。
「だって、うびょびょびょ、ぶぎゅん。だってだって」
「だって、どうした?」
 事情を訊くと、意外にも自分に非があることを認めたので、思わず爆笑してしまった。
「笑うなよお。ごしゅん、ぐしゅしゅ」
「わかったわかった、笑わないよ。うぷぷ。で、そもそも、なんで喧嘩になったんだ?」
 辛抱強く問いかけたところ、他愛ない事情が明らかとなった。子供に限らず、喧嘩の原因は常に他愛ないが。
「それで、勘太郎は、正幸ちゃんと仲直りしたいわけなのか?」
「うん」
 更に勘太郎の要望を聞くと、私に過度の期待を抱いていることが判明した。
「するってえとなにか、仲直りをしたい、と」
「うん」
「それで、仲直りの証拠を残したい、と」
「うん」
「しかも、喧嘩の原因を明らかにして、その経過も残したい、と」
「うん」
 変な発想をする奴である。喧嘩の結果は勝ち負けしかないではないか。
「ふうむ」
 私は古典的習慣に則って、腕組みをし、天井を見上げた。考えてるふり。
「示談書、というものがある」
 と、重々しい口調で私は言ってみた。もはや、「これで遊ぼう」と決めている。ああ、オトナって、きたないっ。
「じだんしょ?」
 勘太郎は小首を傾げた。
「そうだ。子供にはわからないかもしれんが、おとなは、なんらかの揉め事があってそれが話し合いで解決した場合には、そのイキサツを書類にして残すのだ」
「よくわかんないよ」
「わからなくてもいい。俺がその書類をつくってやろう。うひうひ」
 ほんとに、オトナって、きたないっ。
 私は、ワープロを起動した。

       示 談 書

 小泉正幸(以下、「甲」という。)と、原勘太郎(以下、「乙」という。)は、甲乙間で発生した紛争(以下、「本件」という。)に関して以下のとおり合意した。

第1条 甲は、甲所有のソニー社製のゲーム機、通称プレイステーション(以下、「プレステ」という。)を、乙に使用させなかった事実を認めた。
第2条 乙は、甲に対し「けちんぼ」という文言で誹謗中傷した事実を認め、これを謝罪した。
第3条 甲は、前条に規定する謝罪を受諾し、本件に関する乙の行為を不問に付すこととした。
第4条 乙は、甲所有のプレステの使用権が甲にあることを認め、今後は甲に対し使用権を主張しないことを約した。
第5条 甲は、乙の経済事情に配慮し、甲がプレステを使用していない時間には、乙にその使用権を優先的に貸与するよう努めることを約した。
第6条 本件に起因する甲の右肘の打撲及び乙の左手親指の裂傷については、甲乙ともに、自らの自然治癒力によって治療することとし、相互に一切の治療費を要求しないことを確認した。
第7条 甲と乙は、本件の有無に関わらず、親友であることを、相互に確認した。

 本合意の証しとして、本書二通を作成し、甲、乙、双方ともに記名捺印の上、各一通ずつを所持する。

 平成八年 月 日
          甲  小泉 正幸
          乙  原 勘太郎
 プリントアウトした。
「いいか、勘太郎。これを二枚つくったから、この名前のあとにな、正幸ちゃんと勘太郎のハンコを捺すんだ。ハンコがなけりゃ、拇印でもいいや。指に朱肉をつけて指紋を捺せばいい。二枚ともだぞ。それで、お互いに一枚ずつを持ってるんだ。これが仲直りの証拠になるんだからな。大切に持ってなきゃだめだぞ」
 勘太郎は、目をぱちくりさせながらうなずいた。よくわかっていないらしい。
「もちろん、勘太郎が先に謝らなきゃだめだからな。正幸ちゃんが許してくれたら、これを見せて、仲直りの証拠を残そうって言えばいいから。それから、二人ともハンコを捺したら、その日の日付を書き込むんだぞ」
「う~ん。わかんないよお」
 私は、その後、小一時間ほどかけてこの書類の意義を説明した。ようやく納得した勘太郎は喜々として帰っていった。
 他愛ない奴。いやあ、すっかりひどいことをしちゃったなあ。
 勘太郎は、正幸ちゃんとともに次の日曜日にやって来た。叩き起こされた。勘太郎は、他にも大勢の友達を引き連れてきた。午前8時だ。あのさあ、君等は毎日が日曜日だからいいけどもさ、俺は明日はシゴトで、しかもさっき寝たばかりなんだよ。
 アパートの部屋は喧騒に満ち、私はあっぱれさんま先生と化した。
「あのね」と、勘太郎。「正幸ちゃんと仲直りしたよ。ね」
「うん」と、正幸ちゃん。「それでね、みんなも喧嘩したから仲直りしたいんだって」
 は? 仲直りしたい? みんな和やかじゃないか。
 勘太郎が言った。「ねえ。みんなにも、ああいうのつくってあげてよ。みんな、あれがほしいんだって」
「あれ?」
「じだんしょ、だよお」
 は。はあ。示談書?
「んんと、要するに、ああいう書類が欲しいのか。みんな」
「うん」と、うん少年合唱団。ハンコを突き上げる子もいる。まいったなあ。
 わからない。世の中、なにがウケるかわからないものだ。まあ、勘太郎のメンツもあろうし、これは何枚でも示談書をつくらねばなるまい。
「あのう、これ」ひとりの少年が一本の缶ビールを差し出した。「みんなでちょっとずつ出して、販売機で買ったの」
 礼のつもりらしい。私は不覚にも、じいいいん、としてしまった。うれしいじゃねえか。みんなでわずかな金を出し合って、この缶ビールを買ったってえのか。え? 泣いてる? よせやい。この俺様が泣くわけねえだろうがっ。ぐしゅん。てやんでいっべらぼうめっ。と、江戸っ子になっていると、肩をつんつんとつつかれた。
 なんだよ勘太郎。せっかくひとが気持ち良く江戸っ子になってるってえのに。
 勘太郎が口をとがらせた。「はやくつくってあげてよ」
 わかったわかった。つくりますですよ。
「じゃあ、順番に聞こうか。誰とどんなふうに喧嘩したのか、教えてくれよ」
 とたんに、全員がわいわいがやがやと喋り始めた。
「あのねあのね、リョウちゃんが」「ちがうよ、キミちゃんが悪いんだよ」「そうじゃないよ」「なんだよ、あれは勘太郎が」「でもそれは」「だって、リョウちゃんは」「正幸ちゃんだって」「ちがうってば」
「こらこら。みんなでいっぺんに話したってわからないよ。じゃ、君の話から聞こう」
 私は、吐息をついた。小学校の先生はつくづく偉大だと思った。
 順々に、脱線しまくる話を辛抱強く聞き取り、そのたびに示談書をつくった。そもそも喧嘩の事実がない関係も相当数あって、彼等には協定書をつくった。全員がそれぞれ相互に書面を交わしたがるのを説得し、丙や丁まで動員したりもした。疲れた。疲れ切った。仕方がない。自分で蒔いた種だ。
 ようやく全員が納得し、それぞれが複数の書類を手にした時には午後3時になっていた。その間、冷やし中華の出前をとる、清涼飲料水やおやつの類を買い出しに行く、などの出費を強いられた。「どうしてスーファミしかないの。プレステやサターンはないの」といった非難を浴びたりもした。「どうして結婚しないの」「モテないんだ」といった謂れのない中傷にも耐えねばならなかった。余計なお世話だっっっ。
 あわれさんま先生とは、私のことだ。
「じゃあ、みんな、これからも仲良くするんだよ」
 やっと彼等を送り出した。
「は~い」
 元気だ。彼等はとてつもなく元気だ。
「これで、俺たちは友達だなっ」
 などと、言い交わしながら賑やかに去っていった。
 う~ん。なんか、勘違いしてるよなあ。
 ドアを締め、鍵をかけ、電話のコードを引き抜き、ばったりと床に倒れ込んだ。私はそれから15時間、眠り続けた。

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