055 96.07.29 「真木はどうだ?」

 その電話がかかってきたのは、午後8時半を過ぎた頃であった。
 オリンピックの女子マラソンを、私は観ていた。のんべんだらりん、という態度を隠そうともせず、きわめてだらけきった姿勢でテレビの画面を眺めていたのであった。このようにくつろいでいるときにはその気分を断絶させられたくないので、いつもは電話には出ない。が、なぜかついつい出てしまった。魔がさした、としかいいようがない。
「真木はどうだ?」
 だしぬけに、中年男性とおぼしき声が性急な問いかけをなすのであった。
 私は、反射的に応答してしまった。「は。まだ、集団に埋もれていてよくわかりません。1位はピピヒで、早くも独走態勢です」
 あの松下アナもテレ朝の宮島アナも「ピッピヒ」と発音しておったが、「ピピヒ」のほうが私は好きである。ピピピとかヒヒヒだったらもう、射精しそうなほどに好きだが、あいにくピピヒなのであった。
「あ、これは失礼しました。かけ間違いでした」おとうさんは慌てていた。……妙な間。「そうですか。で、クリスチャンセンは、どうですか?」
「は? そんなひとは出場してませんが。引退したんじゃないですか」
「じゃ、ロサ・モタは?」
「出てませんよ」
 おとうさんおとうさん、ちょいと認識が古すぎますよ。
「あ。これはまた、失礼しました。つい気になったもので、我を忘れてしまいました。すみませんすみません」
 電話は切れた。
 なんだなんだ。いったい、なんだったのだろう。間違い電話だ。それは間違いない。間違いなく間違い電話だ。でも、間違いってなんだろう。どうやら、おとうさんは電話をかけた目的を達しているようである。電話に出た相手は、おとうさんの需要に対応しうる私という人物であった。それでも間違い電話なのか。
 「?」の吹き出しを頭上に浮かべながら、私はなおもマラソンを観つづけた。ピピヒは集団に呑み込まれ、ロバの独走態勢となった。ロバのくせに、やけに速い。イギリスではローバーしか自慢するものがないそうだが、エチオピアではロバがいまイチ押しなのであった。真木は後方に埋もれている。
 おとうさんからまた電話がかかってきたのは、午後10時を回っていた。もう、残り10キロもない。ロバの一人旅だ。
「先ほど、失礼申し上げました三田という者です」と、おとうさんはおっしゃるのであった。
 結局、真木がゴールするまで三田さんと話し続けた。三田さんは曜日と時間に縛られない勤務形態のようで、どうやら夜勤中らしい。日曜だというのに、たいへんそうだ。職場はオリンピックの生中継を傍受しうる環境にはないらしく、そもそもは現在進行しつつあるマラソンの経過を、自らの家族に問い合わせたつもりらしい。市外局番を押し忘れて。
 その電話にたまたま出てしまったのが、この馬鹿者であった。こやつは三田さんの需要に応えてしまった。その後、三田さんは自宅に再三電話を入れたのだが、誰も出ない。妻は町内会のカラオケ大会に、息子は暴走族の集会に、老母は川へ洗濯に出かけてしまったらしい。そこで三田さんは考えた。さっきのあのひとなら、私の期待に応えてくださるかもしれない、と。三田さんは、あえて間違い電話をかけた。
 そうして、私は応えることになったのだ。電話による実況中継を挟みながら、三田さんとの長電話となった。
 やがて、ロバは1位でテープを切った。
「これからは、ロバの時代ですかね」
 と、三田さんは言うのであった。
 ロバの時代。それは、ちょっと、やだな。ま、ラクダよりは、いいか。
「真木はどうですか?」
 三田さんは結局そこへ帰っていった。
「12位ですね」
「またですか」
「またです」
「はあ」
 三田さんは、落胆するのであった。
「まあ、シドニーがありますよ」
 はて。私は、なぜ慰めているのであろう。ううむ、仲良くなっちゃった。
「F1はお好きですか?」
 すっかり打ち解けた三田さんは、そのように問いかけるのであった。
「好きですよ。今日はこれから、ドイツGPの中継ですね」
 うっかり私はそう答えてしまった。あ。いかん。
「ほほう」三田さんの声は喜悦の響きを帯びるのであった。「いや、私も好きでしてね」
 おい。三田さん。本気か。
 マラソン観戦を中断されるのはかまわない。実は、それほど興味があるわけではない。だが、F1は困る。それは、とても困る。私のジンセイにおけるF1の比重は、たいへん高い。耽溺しているのだ。観戦を妨害されたくはない。
「じゃ、また、あとで」
 三田さんは電話を切った。それはちと、なれなれしすぎやしまいか。
 そのうちに、F1中継が始まった。フォーメイションラップが始まった頃、電話が鳴り始めた。長い。やたらに長い呼出音だ。スターティンググリッドに全車が出揃った。いよいよスタートだ。まだ、電話は鳴り続けている。うるさい。しつこいぞ、三田さん。出ないからな。俺は、出ないからな。
 出ないんだからな。
 もうっ。
 ほんとに、もう。
 負けた。私は、電話に出てしまった。
「トイレでしたか。すみません。で、アレジなんですけどね」
 三田さんは、滔々と語り始めるのであった。
 仕事しろよ三田さん。仕事を。

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