054 96.07.26 「コイちゃん」

 コイちゃんという人物がいる。
 病弱である。ヨワイ三十三を重ね、その病弱ぶりにはますます磨きがかかっている。病弱だが、大病を患うことはない。
 風邪をひいているのが、常態である。ごく稀に快癒した時期が続くのだが、その折には「気分がすぐれない」「不調だ」と、ぼやく。風邪をひいていないと不安なようである。風邪が悪化し寝込むことも、もちろん、ある。本人の言を借りると「風邪のネストが深まった」とのことであるが、プログラマでない私にはなんのことだかわからない。風邪の上塗りというようなことであろう。
 最近、このコイちゃんが「進化の袋小路」への道を驀進中との報告があった。報告者は本人である。
 コイちゃんは、よく蚊に刺される。蚊を誘うフェロモンを発しているかのようである。が、本人は否定する。「そのような非科学的なことを言ってはいけない。蚊は二酸化炭素を察知するのである。これは私の二酸化炭素の排出量が常人に比して多いだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもない。単なる個体差であり、特殊な体質の証左とはならない」との雄弁な反論である。
 知らんよそんなことは。周囲の人間にとっては便利なだけである。私達はよくキャンプ生活を営むのだが、コイちゃんをそのへんに置いとくと、蚊に刺されずに済むのだ。コイちゃんとキャンプをすれば、まず蚊に刺されない。キャンプばかりではない。花火大会でも縁日でも、コイちゃんとともに野外活動をする限り蚊対策はいらない。すべてコイちゃんが受け持ってくれる。蚊取線香のような人物なのだ。遠ざけるのではなくすべて誘引するのだから、モスキートホイホイというべきか。なんにしろ、重宝なこと、この上ない。
 コイちゃんも防衛活動は行う。虫除けスプレイ、という気休めアイテムを一時間毎に身体中に振りまく。一缶を一夜にして消費する。だが、なんの効果もないのだ。蚊の皆さんは、ひたすらコイちゃんの肌に向かう。
 「どうやら、」とは、コイちゃんの述懐である。「私の身体は、私の意に反して蚊に刺されたがっているようである。私が噴射したスプレイであるが、まったく効かない。その効能を中和して本来の効果を無にするような物質が私の体内より分泌されているもののようである。のべつまくなしに蚊に刺され、かゆくてたまらないが、それを快感と感じる瞬間もある。私は進化しつつある。その進化の末には、繁栄がない。行く先は袋小路である。無念やるかたないが、仕方がない。私は、私の運命を甘受したい」
 やけに悲観的なのであった。
 コイちゃんがなんと言おうと、便利なことに変わりはない。人柱となって蚊柱に取り囲まれて頂くのが、コイちゃんの真骨頂であろう。
 コイちゃんの述懐は続く。「やがて私はヤドリギのようになって、蚊と共生していくだろう。私の血を満々と体内に湛えた蚊が私の身体に鈴なりとなるのである。私は、彼等とともに生きていこう。そうして、いつか、進化の系統樹を、私が断ち切ろう」
 悲壮な決意である。なにやら勘違いしているようだが。
 長生きしていただきたいものである。

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