242 00.02.16 「千社札元年」

 もはや寿命の半ばあたりまでをこの世で過ごしてしまった四名の男が、ぞろぞろと遊園地を練り歩くといった行為をなすのはいかがなものかと思うが、やはり人生一寸先は闇であり、なぜかそうした展開となった。
 東京都台東区は浅草の「花やしき」なる遊園地は、その歴史、規模、経営方針、立地条件など、遊園地界においてはきわめて独自の個性を発散していることでつとに有名であるが、一同にはそれまでその魅惑の地を訪れる機会はなかった。既にそれぞれそれなりの不自由を抱え込んではいるが、花やしきに不自由な人でもある一同なのであった。
 入場時に誤って子供用の入場券を購入してしまうなどといった私のお茶目な失態を織り込みつつ、もはや若くはない一同はその日曜日の昼下がり、ついにかの地に足を踏み入れた。「ついにこの日が訪れたか」「うむ。私のこれまでの人生は今日のこの日のためにあったのだと、私はいま卒然と理解するに至った」「同感である。感無量である」「半村良?」「ちがうって」一同はその空間に突入したのであった。
 遊園地という華やかな場所においてははなはだ場違いであり、いわいわと違和感を放出しているはずの一同であったが、そういった些事はまるで意に介さず、まずは花やしき側の空間利用に対する先鋭な意識を讚美することとなった。「よくもここまで」「3DのCADもない時代にかくも精密な設計をするとは」「ああ。花やしきよ、私はいまエッシャーの絵画を目の当たりにしている思いだ」「よっしゃ?」「ちがうって」つまるところ、花やしきにおいて一同を感動せしめたものは、主に鉛直方向に対する土地利用のすさまじさであった。軽食の類を商っている露店の屋根の五十センチ上方に、なんだかわからないが馬鹿でかいブランコ状の施設の軌跡が掠めたかと思うと、その更に一メートル乃至五メートル上方の空間をモノレール的な施設が占有し、そのまた一メートル上方にコースターのレールが存在する、といったような状況が散見される。重層的に土地を活用するのが花やしき側の真摯な姿勢なのであった。これには一同は圧倒された。無駄な空間の存在を許さない、それこそが花やしきの憲法なのであった。
 とはいっても、ひとしきり感嘆したものの、たかだか遊園地である。一同は遊園地において提供される娯楽を享受するに足る純心からは、もはやかけ離れた場所にその存在の軸足を置いている。評判のローラーコースターを体験したあとは、特に試してみたい施設はなく、とりあえず園内のゲイムセンターに流れていくのであった。
 ここにおいて、私はひとつの福音機械を発見した。簡易千社札作成機、といったものである。プリクラやファンシー名刺の思想を推し進めると、こういう機械ができあがるのであろう。個人用千社札が簡単に作れます、シールです、どこにでも貼れます、というのであった。ゲイムセンターのような娯楽施設ではごく一般的に置かれている装置なのかもしれないが、私はそうした環境には不案内であり、とにもかくにも初対面であった。
「やややや」
 私は瞠目した。これはよい。よいではないか。千社札である。本来の用途から脱却しろ、との御提案であろうか。なんにしろ、独自の千社札の一枚や二枚は持っていないと、この新たなミレニアムを生き抜いてはゆけまい。そうだそうだ、そうに決まっている。千社札元年の今、私は自らの千社札を持つのだ。所有するのだ。
 私は「いそいそ」と呟きながら百円玉三枚を投入した。江戸っ子口調の音声ガイダンスに従いながら、図柄、背景、書体などを指定した。肝心のフレーズについては氏名ではなく、自らが公開しているウェブサイトの名称を入力した。そうした作業をなしていると、他三名が集まってきた。「お。千社札か」「いかにも、千社札である」「せんだみつおとは違うのであるな」「違うのである」「猫踏んじゃったでもないのだな」「ないのである」「それ、ちょっと遠いぞ」簡易千社札作成機は、たちまち好評を博した。
 ふと気づいてみると、四種類の千社札ができあがっていた。
 しかも、更に気づいてみると、一同はなんだか幸せな気分になっているのであった。
 魔力である。「貼らねばなるまい」「なるまい」「貼って安心、と三波先生も仰っておられる」「有り難い教えといえよう」「ならば、往かん」「いざ、貼らん」千社札の魔力なのであった。
 幸いというか、折悪しくというか、近辺には寺院仏閣が多い。花やしきを出た一同は、頃合のスペースを物色にかかった。もはや目に映る宗教施設は「作ったばかりの千社札を貼る場所」としか認識されない。罰当たりの一同なのであった。
 魔力である。「ここなどはどうか」「むむ。目立たないではないか」「そこがよいのだ」「であるか」「ああ、もう、どこでもいい。はやく貼りたいっ」「では、ここに貼ろう」千社札の魔力なのであった。
 かくして、四枚の千社札が、とある寺院の山門の片隅に貼られた。「雑文館」「太西科学」「みや千代曰記」「週刊℃S」と、たいへんにうさんくさい千社札が、褪せた朱色を背景に、冬の夕陽を浴びて燦然と輝くに至った。
 魔力である。「記念写真を撮ろうではないか」「名案である」「各々の千社札を指さしたポーズを取る、というのはどうか」「名案である」「と、すれば、誰が撮るのだ」「明暗を分けるところだな」千社札の魔力なのであった。
 ちょうどそこに通りかかったヤマンバさんにとっては、不運以外のなにものでもなかった。なによこのヘンなひとたち、わかったわよ、シャッターくらい押したげるわよ、と内心では思っていたに違いない。え、なによなによ、なんでそんなヘンなポーズとんのよ、なによなによ、なんなのこのひとたち、とも考えていたに違いない。
 カシャ。
 暴力である。「あ、どうもありがとうございましたー」「すみません、ぼくたち、ちょっと馬鹿なんです」千社札の暴力なのであった。
 その後、一同は居酒屋に潜入し、次なる行動指針を模索した。「やはり、ひとり八十八枚は作らねばなるまい」「やはり、そうなるか」「なるであろう」「往くか四国へ」「往かねばなるまい」そうとう勘違いしている。
 教訓は、ひとつ。馬鹿に千社札を与えるな。

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