241 00.02.15 「検便なんて」
三寸角ほどの、白地に黒字のステッカーであり、凝った書体を用いているわけでもなく、たいへん素っ気ない。言わんとしているところは、「O-157腸内細菌(検便)検査実施の店」なのであった。銀座のとある飲食店の壁に貼られたそのステッカーは、そうした文句で世間に訴えているのであった。「ウチの従業員はみんな検便してるんだもんね、O-157なんかへっちゃらだい」と、主張しているのであった。
「むむむ」
私は思わず足を止め、そのステッカーに魅入られた。O-157は、好物であるかいわれ大根を窮地に陥れた悪漢としていたく私の不興を買っている。その動静には常々注目してきたところである。最近その風説が途絶えており、地下に潜行して時効切れを待ちに入ったのかと危惧していたのであるが、意外なところで対応策を講じられていたのであった。
くだんの文句の下には、ひとまわり小さな文字で「お墨付き」が付け加えられている。検便の実施機関である。登録衛生検査所、という一般名詞が用いられている。どこに登録されているのかと思えば、これがまたなにゆえか大阪府である。大阪府登録第69号の肩書きを携えた登録衛生検査所こそが、中央微生物検査所なのであった。どちらが一般名詞でどちらが固有名詞なのか、にわかには判断しかねるあたりがたいへん怪しげで、私はことのほか喜んでしまうのであった。どのような団体かはつまびらかではないが、どうやら中央微生物検査所は例の山田さんのお墨付きがある登録証を保持しており、これをもって検便活動に精を出しているもののようであった。ああ、素晴らしき哉、中央微生物検査所。検便なら、中央。けんべんだもの。私も次回の検便の際には、ぜひ中央さんにお願いしたいものである。前回はいつだったか忘れたが。
とりあえず大阪府のお墨付きの範囲は中央さんが行いうる業務の資格にとどまっており、この飲食店において中央さんが実施した検便の結果については、大阪府はなんの責任も持たない。それは中央さんの責に帰する。しかし中央さんとしても検査結果には自信を持っていようが、同店舗のその後の従業員の入れ換わりについては関知するところではなかろう。更には、検査後についうっかりO-157の病魔に取りつかれてしまった悲運の従業員についても、やっぱり関知しないのである。あくまで、ある時点におけるあるひとつの局面が切りとられて提示されているにすぎない。
そういうステッカーが無造作に貼られているのであった。その主張の根拠はたいへんずさんであり、その責任の所在はたいへんあやふやである。巧妙である、といえるだろう。私は、感嘆した。
たとえば、O-157は食材を通じて感染したのがこれまでの通例であり、従業員の検便が客の健康になにほどの好影響を与えるのであろうか、といった疑念がまずある。また、中央さんの法人格の立脚するところが明らかにされていないので、任意団体なのではないかとの疑惑を招いてしまう点も気にかかる。が、そうした些事はどうでもよいのである。問題のステッカーは、「O-157腸内細菌(検便)検査実施の店」というフレーズで漠然とした安心感を印象づけ、「大阪府登録第69号の中央微生物検査所」という「お墨付き」でそれをなんとなく裏打ちできれば、所期の目的を達したといえるのである。私はたまたまO-157という狼藉者に対して過剰な敵愾心を抱いているがゆえに、その背後に潜む不合理をかくも追求するのであるが、このようなステッカーを熟読してその背景を探ろうとするひとは、そもそもあんまりいないのである。私のようなかいわれ大根オタクに見つかってしまったのが運の尽きではあろう。
だいたい、このステッカーをつくったのは誰なのか。本店舗独自の企画なのか、本店舗が属する業界団体の計略なのか、地元商工会議所が目論んだ打開策なのか、行政主導による衛生対策の一環であったりするのか。そのあたりが皆目わからない。
わからない。考えれば考えるほど理解が遠のいていく、呪縛で魅惑で不可解な謎のステッカーなのであった。
断言できることはひとつしかない。
「ウチにも貼ろう、っと」
これはぜひ貼りたい。貼るぞ。幸い私はコンピュータとプリンタを所持している。こんなステッカーをつくるのは簡単である。
「O-157腸内細菌(検便)検査実施の部屋」である。中央さんの検便は受けていないが、こんなもんは貼ったもん勝ちである。検便なんて、ららー、らーららら、らーらー。適当に、大坂府登録第69号の中央徴生物検査所などという団体をでっちあげておけばよい。貼るぞ。
みた、つくった、はった。
んー、なんでオレ、ほんとに作って貼るかなあ。
これで安心してホームパーティを開けますね。って、オレは誰に何を言ってんだかなあ。
ともあれ、以上が、「O-157腸内細菌(検便)検査実施の部屋」誕生秘話である。
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