229 99.06.24 「どちら」

 おばちゃんもおばちゃんだ。そういう訊き方はよくない、と私は強く思う。よくありません。だめです。いけません。いかんのです。
 昼飯時に、とあるラーメン屋、つまりは伊沢町二丁目の進々亭、富士銀行の並びにある緑色の看板が目立つあの店だが、そういった場所でタンメンの摂取に躍起になっていたところ、アロハシャツを着た男が隣のテーブルに就いたのであった。
「ラーメン、ギョーザ、ビール」
 と、アロハ氏は淀みなく注文した。なんのためらいもない。言い終わるや否や、競馬新聞を取り出し、儚い夢に思いを馳せつつ勝馬投票券の購入方針に関する大いなる考察に取りかかった。
 ひとは誰でも何かに取り組んでいる。私の目下の懸案は、少々塩分が過剰気味の眼前のタンメンに他ならない。一方、アロハ氏に差し迫った関心事は、競馬である。ラーメンではない。ギョーザではない。ましてやビールではなかった。そんな些細なことはどうでもいいのである。
 が、進々亭のおばちゃんにはおばちゃんの職務があった。客の注文を受け、それを正確に厨房に伝える。それこそがおばちゃんが取り組んでいる崇高な任務である。482日連続無失策の自己記録を更新中と推察されるおばちゃんは、律儀に己の聖職を全うしようとした。自らに課された責務を忠実に遂行せんと試みるおばちゃんなのであった。
「ラーメン、ギョーザ、ビールですね」おばちゃんは復唱しながら伝票に書きつけた。「ビールはどちらになさいますか?」
 その訊き方がいかんというのである。他人事ながら、私はアロハ氏の苦境に限りない同情を覚えた。私がアロハ氏側の人物と化した瞬間であった。もはや私はアロハ氏の走狗である。その背景には、スープの塩分問題の他に、麺の茹でかげん問題、全野菜量に比してのキャベツの寡占問題といった店側に対する私の憤懣がのんべんだらりんと横たわっていた事実は否定し難い。私は、口には出さなかったものの、ただちにアロハ氏との統一戦線を築くに至った。アロハ氏よ、共に進々亭と闘おうではないか。
 アロハ氏は競馬新聞に捧げていた視線を、のろのろとおばちゃんに向けた。おばちゃんの発言の骨子が理解できない御様子である。もっともである。私も理解できない。
 ビールはどちらになさいますか、と、おばちゃんは、命題を提示した。おばちゃんにはおばちゃんの職業倫理に貫かれた常識があるのだろう。かといって、なんらの例示もなく「どちらか」と客に選択を求めるのはいかがなものか。二者択一を迫るのならば、それ相応の礼儀があってしかるべきではなかろうか。
 どちらか。
 ハイネケンかコロナか、と訊いているのか。食前に飲むか食後に飲むか、と問うているのか。熱燗のビールか冷やのビールか、と尋ねているのか。ビーを飲みたいのかルを飲みたいのか、と迫っているのか。かいもく見当がつかない。
「どちら、って?」
 当惑を滲ませながら、アロハ氏は訊き返した。当然の反応である。俺に与えられた選択肢はいったいどのようなものであるのだろうか。アロハ氏の胸裏にはもちろんそうした疑念が兆しているのであった。
「生にしますか、それとも瓶?」
 ここに至ってようやく、おばちゃんは苛立たしげに回答例を提示した。
 そういうことであったか。私はようやく得心した。ジョッキの生ビールなのか、それとも瓶のビールなのか。どうやらおばちゃんはそこのところをアロハ氏に問うていたもののようであった。
 とはいえ、アロハ=タンメン統一戦線、略してあたぼうよ戦線、いや略すというにはいささかの夾雑物が混入しておるが、とにもかくにも二毛作、あたぼうよ戦線としては、今更ながらに自らの質問の意味を提示するおばちゃんの態度に、いささかの不信感を禁じ得ない。どうなっておるのだ進々亭。
 ビールを注文して「どちらか」と問われれば、「あ。生ね。生中ね」とか「瓶ね。一番絞り、ある? あ、ないの。じゃ、ラガーでいいや」などといった当意即妙のお答えを誰もが返す。そう考えているのなら、進々亭よ、それは大間違いなのだ。おばちゃんよ、大間違いなのだぞ。アロハ氏は競馬に夢中でその論点に気づかず、私は私で見当違いの方向を無駄に深く考察する性癖によってその視点とはかけ離れた場所を模索したが、そうした少数派の存在をいかに考えておるのか進々亭。その対応如何によっては、あたぼうよ戦線にも考えがある。ま、休むに似ている例のやつだが。
 無造作に「どちら」とは何事か。あたぼうよ戦線は困惑するばかりである。はじめから、はっきり問い掛けてもらいたい。生か、瓶か、と。あたぼうよ戦線は、あんまり頭がよくないのだぞ。あ、いや、アロハ氏よ、いまの発言はその場のイキオイだから。イキオイ。イキオイなんだよ。勢い、って書くんだよ。そんなこと知ってるか、あはは。
 などと内部抗争を繰り広げている場合ではなかった。
「んーとね、じゃあね、ええとね、どっちにしようかな」
 こらこらアロハ氏よ、迷うんじゃないってば。迷う前におばちゃんの無法をひとことたしなめるくらいの気概を発揮してもよいのではないか。どうだろうアロハ氏、ここはひとつ、全国のビール愛好家を代表して進々亭サイドの不遜を戒めてみないか。私も全国のタンメンファンを代表して全面的に支援する。競馬の予想も大切だが、世の中にはきっちり筋を通しておかなければならない局面もあるものだ。アロハ氏よ、今こそあなたがその先駆者となるべき時である。立ち上がれ、アロハ氏。
「じゃあ、生。生中ね」
 アロハ氏はついに決断した。
「生中おひとつですね」すかさず、おばちゃんは対応した。「ラーメン一丁、ギョーザ一枚、生中一つ、入りましたあ」
 厨房はただちに呼応した。「ラーメンいっちょ~、ギョーザいちまいっ、生中ひと~つ」
 おばちゃんの482日連続無失策の自己記録は安泰であった。
 安泰じゃないのは、あたぼうよ戦線である。
 よくわかったアロハよ。
 あんたがそんな腑甲斐ない奴だとは思わなかった。コンビ解消だ。あんたとの関係もこれまでだ。そうやって競馬新聞にかまけているがいい。短い間だったが、世話になった。あんたはあんたの生中を飲め。私は私のタンメンに憤っていこう。
 しかし、よく考えてみると、アロハ氏と私とはなんの関係もなかったな。
 よく考えてみるまでもないが。

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