221 99.04.26 「うひょひょえいい」

「うひょひょえいい」
 と、いったような驚愕と怯懦に満ちた悲鳴が、突如として玄関のドアの外から聞こえてきたのである。
 私は驚いて、手にしたばかりの朝刊をぽろりと落としてしまった。事態を把握するまでには、しばらくの時間を要した。
 うむ。私がよくない。私が悪かった。私が馬鹿だ。私が馬だ。私が鹿だ。私は、ゑゑと、誰だっけ。
 そもそもは、尿意といったものが発端であった。便意と並んで人心をいたたまれなくさせてきたこの狼藉者は、暁を覚えないはずの私の春眠に乱入してきたのである。にょ~いにょ~いとほざきながらやって来て、私を覚醒させたのであった。覚えちゃったか、暁。あんまり覚えたくはなかったが。尿意よ、もうすこし思いやりがあってもよいのではないか。ないのである。尿意は非情と提携している。
 ぱちくりと目をしばたたかせてみたが、辺りは暗い。枕元の時計を見やると、まだ午前四時である。未明である。私の身体を包む布団ちゃんは、「行かないで」と甘える。「行っちゃダメ」と睦言をささやく。
 しかし、行かねばならぬのだ、愛しきひとよ。いや、布団よ。目下の懸案は、この尿意に他ならない。可及的速やかに、この問題に決着をつけねばならぬ。この尿意をなんとかしなければ、私は自らの小水で君を汚してしまうだろう。すぐに帰ってくる。いいこだから、おとなしく待っていてくれハニー。
 といったような次第で、寝惚けたままトイレに赴き、筋肉を弛緩させたのであった。じょろじょろ。
 ふと、戸外の物音に気づいた。じょろじょろ。新聞の配達業務を生業としている、いわゆる朝刊太郎さんの勤務が遂行されているもののようであった。じょろじょろ。ううむ、朝刊太郎は古かったかな。じょろじょろろろ。じゃあ、朝刊太夫だ。って、更に古くさくなっているのだが、そういうことには気づかない寝惚け頭の私なのであった。ぶるんぶるん。
 尿意問題を全面的に解決した私は、再びハニーのぬくもりに抱かれんと、いそいそとトイレを出た。我が庵の構造的特質として、そこは玄関となっている。玄関には、やはりドアがある。その内と外では人格が変貌すると後ろ指をさされて久しいドアである。開閉以外の外交手段として、その中央の下部寄りの位置に郵便受けといったものが設けられている。ピザ屋、AV屋、宗教屋などのチラシが頻繁に投入されることで名高い郵便受けだが、新聞が挿入されることを本業としていることもあまり知られてはいないが事実である。
 尿意の解消という緊急懸案事項から解放された私がトイレを出たちょうどその時、朝刊太夫が郵便受けに朝刊を差し入れたのは、単なる偶然にすぎない。そこに私がいたのは、偶然にすぎない。
 ドアの内側にいた私は、にょきにょきと差し込まれた朝刊を見出した。反射的に腕を差し伸べて、その朝刊を引き抜いた。寝惚けていた。単なる反応である。なにも考えていない行動である。
 しかし、ドアの外側にいた朝刊太夫にとっては、論外の現象であった。
「うひょひょえいい」
 と、いったような驚愕と怯懦に満ちた悲鳴をあげたとしても、いったい誰が彼を責められるだろう。いつものように、朝刊をその郵便受けに差し入れた。いつもなら、その朝刊の半ばまでがその郵便受けの内部に納まり、もう半分が戸外に突き立ったままとなるはずである。それがなんだというのだ。朝刊はそのままするすると内部に引き込まれていくではないか。なんだというのだ。これは、底無し郵便受けか。朝刊太夫は、畏れおののいた。
「うひょひょえいい」
 朝刊太夫よ、すまなかった。私がよくない。私が悪かった。私が馬鹿だ。馬でも鹿でもない。馬鹿きわまりない。
 あまつさえ、ドアの内側からかくも間の抜けた発言を聞かせてしまって、本当に申し訳ない。
「あ。ごめんごめん。配達するもんだからさ、つい」
 朝刊太夫は、朝刊を配達するのが仕事なのである。失敬千万の暴言である。つい、で済ませようというのかオノレは。
 済ませようとしたのである。寝惚けていると、失敬を不自然に感じないのである。
 しかし、この朝刊太夫は、百戦錬磨のツワモノなのであった。驚愕と怯懦に満ちた悲鳴をあげたわりには、瞬時に立ち直るのであった。
「おはようございます。今日の見所は第八面ですよ」
 なんだろう。こうした不慮の事態に対するケーススタディが完璧なのであろうか。わからない。わからないが、見所は第八面であるらしい。
「わかった。第八面だね」
 なにもわかっていないくせに、ドアの内側の寝惚け頭はそのように返答するのであった。
 そんなことより、ハニーである。ぬくぬく布団ちゃんに抱かれなければならないのである。
「帰ってきたよ。むふふん」
 そうして寝過ごして、遅刻の憂き目をみる私は、ゑゑと、誰だっけ。
 少なくとも、馬鹿であるのだが。

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