216 99.03.15 「1999年のMr.090」

 1953年4月30日に兵庫県で生まれた岡田信行さんは、87年頃には金鳥どんと、ザ・テレビジョン、シマヤだしの素など、盛んにCMに起用されておりましたが、90年代に入ると露出量が斬減し、97年の関西電力を最後にCMの仕事は途切れている模様です。きっと、レギュラー番組も減っているのでしょう。いや、なくなっているのかもしれません。もはや、手遅れなのかもしれません。「イタイのそこが」などと、後れ毛を掻き上げながら歌っていた栄華も今は昔です。憎めない貧乏神といったスタンスが愛されたMr.オクレこと岡田信行さんの芸能生命は、旦夕に迫っているのでした。
 一方、本年から携帯電話の番号の11桁化が実施されたことに、私達は注目しなければならないでしょう。「ケ~タイ、ピ~エイチエス、じゅういちケタ~」とウサギが能天気にほざいていたあのCMは、昨年末の騒音庁長官に他なりませんでした。
 そうして地球は飽きもせずに自転し、あまつさえ公転なんかもするわけです。オクレ兄さんは没落し、ウサギ年が訪れ11桁化は強引に実施されたのでした。この一見なんの関連もなさそうに思える二つの事象に、実は意表をつく接点があったことはあまり知られていませんが、紛れもない事実です。まったくもって、世の中はわかりません。世の中のかわずにならないためにも、キイワード「090」の背後に潜む驚異の世界を、ぜひ知っておきたいものです。ものなのです。
 11桁化における携帯電話の新たな立場は、その番号が090で始まる、というものでした。010も020も030も040も080も、みんなごくろうさん、今年からはぜんぶ090でいくから、そういうことでよろしく。と、ウサギが言ったもんだから、突如としてオクレ兄さんの出番が訪れたわけです。
 いうまでもなく、電話番号は語呂合わせで憶えるのが、決まりになっています。これは、電話番号記憶基本法第2条第2項に明記されているところです。キカイに覚え込ませるという黒魔術も存在するとの風評も仄聞するところですが、そんな邪悪な手段はここでは黙殺します。番号登録の方法がわからない、といった些末事にこだわっている場合ではないのです。一連の数字は語呂合わせで記憶するのが常識です。ええ、常識なんです。なんです。なんですってば。
 すみません、語呂合わせ専門誌「GORO」を読んで育った世代の悲哀、ということで、ひとつ。
 たとえば、090-2345-1074という電話番号は、「オクレ兄さん仕事なし」と憶えておくのが、冴えたやり方というものです。もちろん、そうしていますね、090-2345-1074という電話番号を持った知人を有するみなさんは。
 語呂合わせもなかなか疲れるものです。090-3441-0904に電話するたびに、「オクレさん、よしとくれよ」と、なんだかよくわかりませんがオクレ兄さんを穏やかに拒絶しなければなりません。090-8894-8946に電話をかけるには、「オクレ、早く予約しろ」と、なぜそうなるのかさっぱりわかりませんがオクレ兄さんに命令しなければなりません。090-4771-4008という電話番号を持った女性を恋人にした日には、愛の語らいをなす前に必ず、「オクレ、死なないよ俺は」と、オクレ兄さんに誓わなければなりません。
 どれもこれもいささか妙なフレーズですが、この語呂すこ~し変よ、と思わせるところが語呂合わせ記憶法の特質です。どうしたのかな、と首を捻らせるほど強引にならざるを得ません。つまんないの、と感じさせるあたりにこの手法の宿命があるのでした。
 おわかりでしょうか。そうです、オクレ兄さんはそういった難しい場面で、年頭より大活躍しているのでした。あらゆる携帯電話には、Mr.オクレが宿っているのです。本年1月1日午前2時をもって、この列島のすべての携帯電話にオクレ兄さんが舞い降りたのです。
 オクレ兄さんの長い休暇は終わりました。1999年こそがオクレ兄さん大ブレイクの年となったのです。もっとも、今のところ語呂合わせの世界でしか活躍していませんし、その活躍ぶりがそれ以外の例えば芸能界といった分野に波及する気配はありません。でも、いいじゃないですか、オクレ兄さん。プロデューサー業を営むどこかの誰かが、毎日電話をかけるたびに脳裡を過る「オクレ」に喚起されて、ふと「あいつ最近どうしてんのかな。今度の番組で使ってみようかな」と、考えないとも限らないではありませんか。
 時代はオクレ兄さんです。昨年までは「鬼丸さんは嫌な奴」と記憶されていた020-381-8782は、090-2381-8782に生まれ変わり「オクレ兄さんは嫌な奴」と読まれることになりました。いや、オクレ兄さんは嫌な奴じゃないですよ、たぶん。「マルサを愚弄しに行こうよ」と憶えられて税務当局から睨まれていた030-964-2154は、090-3964-2154に再生して「オクレさん、愚弄しに行こうよ」と言い習わされる運びとなりました。いや、愚弄しちゃいけませんが、オクレ兄さんのことは。
 なぜオクレなのか、遅れでもよいではないか、送れと命令形になっても差し支えないではないか、お呉れと懇願調になってもかまわないように思えるがそのあたりどうなっておるのか。と、そうした健全な良識もあることでしょう。しかし、そういうことではないのです。オクレ兄さんの姿が脳裡に浮かんだほうが憶えやすいのです。忘れにくいのです。記憶術の本をひもとけば、なにかと連想させて記憶しろと書いてあるはずです。まずは、無味乾燥な数字の羅列に強引に意味を与える。そして、そこに登場するオクレ兄さん。そうした構図が忘却の魔の手からあなたを救うのです。
 たとえば、090-3892-8310の関係者に問いかけますが、「送れ、砂漠に野菜を」と「オクレ、砂漠に婆さんと」、これはどうでしょう。いったいあなたはどちらを選ぶでしょうか。オクレ兄さんです。オクレ兄さんに決まっています。オクレ兄さんをあなたは選ぶことでしょう。いやいや、そういうことになっているので、そういうことにしておいてください。灼熱の砂漠で婆さんと二人で佇み困惑しているオクレ兄さんという絵が、あなたの記憶を完璧なものにするのです。
 今この瞬間も、この空の下のあらゆる場所で携帯電話が鳴っています。さあ、電話に出てみましょう。そうして、一瞬前にオクレ兄さんの姿を思い浮かべた相手と話してみましょう。オクレ兄さんに感謝しながら。
 1999年。電話暦では、オクレ元年。
 時代は、ようやくオクレ兄さんに追いついたのです。

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