217 99.03.18 「人呼んで柳田」

 人呼んで柳田、というのだそうである。人呼んでも何も、本名が柳田康夫なのである。呼ぼうが呼ぶまいが、柳田である。しかしなぜか、人は「人呼んで柳田」と彼を呼ぶのであった。ヒトヨンデ柳田、である。たとえばたけし軍団の一員とでも考えれば、さほど不思議な呼称ではないような気もする。「よりによって柳田」でも構わないし「言うに事欠いて柳田」でも構わない。そこまで無益な考察を押し進めると、なんとか「人呼んで柳田も普通の人なんだな、名前に似合わずいい奴なんだな」と納得できるようになるというものである。
 人呼んで柳田は、居酒屋という小宇宙において、誰かの友達の知り合いの関係者の後輩だかなんだか、そのようなスタンスで、我々の前に出現した。居酒屋で出会ったので、挨拶を交したあとはとりあえずは友達ということになる。
 干支が一回り以上違うようだが、人呼んで柳田はやけに人懐こい性格を有しており、すぐに打ち解け、「ランパブ、行きましょうよ~、ランパブ」などと誘いかけてくるのであった。
 しかし、集まっている面々はそんなめんどくさそうな場所よりも飲酒をこよなく愛しているのである。自堕落なのである。人呼んで柳田は軽くあしらわれたあげくに、無視された。そして、一同は店舗情報などを交換し合うのであった。
 「浜田町の‘かね松’、行った?」「いや、まだ行ってない。どう、あそこ」「品揃えはいいよ」品揃えとは、日本酒の銘柄のことである。「でも、料理がちょっと高い。鯛のつみれはうまかったな。表面だけ炙ってあって、わさび醤油で食うの」「ほほう」
 「市民会館の裏通りに‘西ろく’って、あるだろ。よくなったよあそこ」「あ、そうなんだ」「さいきん板さんが変わったんだって。なんでも真鶴で店を構えてたひとらしいんだけど、いろいろあって流れてきたらしい」「いろいろねえ」「ま、うまいもん食わしてくれりゃ、なんでもいいけどね」「ごもっとも」
「あ~、もしもし」
 「‘のしろ’って、さいきん行った?」「あ、行った行った。どうしちゃったんだ、あそこ」「それがさ、マスターがさ、蔵元と喧嘩しちゃったんだって。秋田県内の蔵元にお触れが回って、哀れマスター締め出し」「うひゃひゃひゃ、秋田の地酒なんでもあります、とか言ってたのになあ」「白鹿だもんなあ」「松竹梅だもんなあ」「うひゃひゃひゃひゃ」
「あ~、もしもし」
 「東雲通りに‘きたもと’ってバーがあるでしょ。レンブラントの贋作が掛かってる」「ああ、あの偏屈なマスターの」「あそこ、近頃ちょっとした料理出すの、知ってた?」「へえ、そうなの。ナッツしか出さないんじゃなかったの?」「それがね、やけに凝ったつきだしが出てきたりするんだよ」「どうしちゃったのよ、いったい」「奥に厨房ができてね」「あったの? あの店に厨房なんか」「だから、最近つくったらしいのよ」「誰が料理つくってんの?」「いや、よくわかんないんだよ」「謎だな」「謎だ」「堕落したな」「堕落したよ。でも、マスターは幸せそうなんだよな」
「あ~、もしもし」
「ところでさ、さっきから、もしもしとか言ってる奴がいるんだけど」
「いるな」
「無視されてるのがわかってない奴な」
「みなさん」人呼んで柳田は、ここぞとばかりに割り込んできた。「無視されて苦節三十分、私が、わたくしこそが、人呼んでヒトヨンデ柳田でございます」
「呼んでないけどな」
「呼ばれてないのがわかってないらしいな」
「みなさん」人呼んで柳田は、咳払いといった効果音を自主上映しながら、めげずに語るのであった。「ランパブ好きは、世を忍ぶ仮の姿。わたくしこと人呼んでヒトヨンデ柳田が、ここに一軒のコリョーリヤと懇意にしている事実は、お釈迦様でも御存じあるめえでござんす」
「変だぞ日本語、ヒトヨンデよ」
「コリョーリヤというのはアレか。あの小料理屋のことか、ヒトヨンデ」
「いかにも」人呼んで柳田は、うなずくのであった。「いかにもあの小料理屋でございます」
「で、俺達をそこへ連れていく、と。ヒトヨンデよ、自信があるわけだな」
「ございます」人呼んで柳田は、自信たっぷりである。「ございますともさあ。がってん承知すのけ」
「あのさあ、ヒトヨンデ」
「はい?」
「日本語は正しく使おうな」
「はい~?」
 人呼んで柳田は、よくわかっていないようであった。
「へえ。こんなとこに小料理屋があったとはね」
 人呼んで柳田に伴われた暗い路地裏に、その店はあった。看板も提灯も掲げておらず、縄暖簾がかかっていなかったら飲酒をなす場所とはとても思われないたたずまいである。表札に書かれた‘八凪駄’というのが店の名なのだろう。
「なんて読むんだ、これ」
 と言いながら一同は縄暖簾をくぐった。こぢんまりした店で、L字型の白木のカウンターに、籐で編まれた椅子が七つ。それが定員。一同がなだれこんだら満員となった。店名の読み方は、すぐに明らかとなった。カウンターの中にいた女将が、すっとんきょうな声で人呼んで柳田を迎えたのだ。
「ああら康夫、こんなにたくさんの人をよく呼んできたねえ。えらいよ」
 とたんに、一同は脱力した。こらこら、人呼んで柳田、己の母ちゃんが営む店に連れてきてどうする。‘八凪駄’は‘やなぎだ’に他ならないのであった。
「ううむ。人呼んで柳田とは、そういう意味であったか」
「まさか呼び込みだったとは」
「やだなあ」人呼んで柳田は悪びれないのであった。「スカウトっすよ、スカウト」
「やられたな」
「やられたやられた」
「まあまあ」人呼んで柳田はへこたれないのであった。「とにかく、食ってくださいよ」
「ふむ。まあ、それもそうだな」
「そうそう。とにかく食べて」人呼んで柳田の母も息子の尻馬に乗るのであった。「今日は、なめろうがあるのよ」
「ほほう」一同は身を乗り出すのであった。
 二時間後、旨い安い攻撃に白旗を挙げた一同は、深い満足をそれぞれの腹に抱きながら店をあとにした。
「やられたな」
「やられたやられた」
「いや、ヒトヨンデよ、疑ってすまなかった」
「いやはや、すっかり堪能した。ありがとうヒトヨンデ」
「ゑへへへ」人呼んで柳田は照れているようであった。「そりゃもう、俺は人呼んでヒトヨンデ柳田ですから。お茶の子サンザンですよ」
「だからさ、ヒトヨンデ」
「はい?」
「日本語は正しく使おうな」
「はい~?」

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