208 98.11.29 「もぐもぐ」
私は、売られた鯨は買うタイプである。こらえて生きるもオトコなら、売られた鯨を買うのもオトコなのである。ベーコンなどは特に好んでいる。細く刻んだやつがいいね。好物である。そういう私なので、あの複雑きわまりない捕鯨問題についてはなんら語る資格を持たない。が、それでもこの惹句はどうかと思うのである。
「76万頭いるんだよ!」
とあるスーパーの鮮魚売場で入手したのである。私が購入した商品そのものは、鯨の切り身122グラム1074円といったようなパックである。たいへんに高価であり、いつもの私だったら買わないが、折良くというか折悪しくというか、フトコロの月例バイオリズムが頂点に達していた。いわゆる給料日直後のハレの状態である。瞬間の金満家(当人比)と称される現象であり、眼鏡を外しておしぼりで顔を拭いながら「買っちゃうよ、がつんと」などとほざいて、買っちゃったのである。
鯨である。もはやワカモノではないひとびとにとっては「給食」と分かち難い記憶を伴う、あの鯨肉である。存在価値というものが或る時いきなり逆転した、あの鯨肉である。懐かしい記憶の中では極めて安価なのに昨今では異常に高価な、あの鯨である。そういうものの購入の運びに至る私なのであった。
パックを覆うラップにステッカーが貼られている。そのステッカーこそが、「76万頭いるんだよ!」と熱く語りかけているのであった。その他、このステッカーに認められるフレーズは、「南氷洋」「調査捕鯨」「ミンク鯨」などである。
それにつけても、「76万頭いるんだよ!」である。そうはいっても、「76万頭いるんだよ!」である。なにがなんだか、「76万頭いるんだよ!」である。いったいぜんたい、どうなっているのであろうか。
これほど穴だらけというか脇が甘いというか隙だらけというか触れなば落ちんといったような惹句は、これはちょっと他にないのではないか。いかがなものか指数98の離れ技である。
ここまで融通無碍な態度で迫られると、逆に「なにか罠でもあるのではないか」と考えてしまうが、あえてそういう効果を狙った惹句なのかもしれない。とはいっても、保護の観点に立脚する人はすかさず目くじらを立てて指摘することであろう。76万頭いるからといって漁獲の対象としていいのか、と。私は酒肴の観点に立脚する者であるが、その私ですらも同様の指摘をなしたい。その文脈は根本的に杜撰すぎるんじゃないですか。
ゴジラは1頭しかいないけどクジラは76万頭もいるんだよ! とでも言いたいのであろうか。割合の寡少を強調してお目溢しを願う論理はかなり危険で、この発想を押し進めていくととんでもなく悲惨な結論が導かれることは歴史が立証するところではなかったのであろうか。だいたい、この惹句の初稿は「76万頭もいるんだよ!」であったに決まっているのである。「この“も”は、ちょっとアレじゃないすか」「ちょっとアレか」「まずいっす、保護の人を刺激しちゃいかんっす」「そうかそうか、じゃあ、“も”をとっちゃおう」そのような経過で“も”は、喪に服してしまったのである。根拠はないけど、そうに決まっているのである。
ま、鯨を食いながらそんなことほざいても説得力ないすけどね。もぐもぐ。
76万頭がいかなる数字なのかもよくわからない。ミンク鯨だけなのか、鯨全般なのか、海で暮らす哺乳類全般なのか。洋画宣伝の法則を鑑みると最後のやつが怪しいが、やっぱりよくわからない。いったいなにが76万頭もいるというのであろう。76万人の市となると近隣の市町村を併合して政令指定都市にならんとする規模だが、76万頭のなにかは、いったいなにがどうなっているのであろう。
ステッカーは、なんらのヒントも与えてくれないのであった。南氷洋の冷ややかさで、澄ましているばかりである。調査捕鯨などという曖昧模糊としたことばを謳って平然としているくらいだから、やはり一筋縄ではいかないのであろう。妥協に妥協を重ねたあげくに誕生したこのことばは照れくさそうに使われるものかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。調査捕鯨と標榜すれば済むだろうという発想は、どうやら存在するらしい。ううむ。なんだかよくわからないが、困ってしまう私なのであった。もうちょっと恥ずかしそうにしてたほうがいいんじゃないかな、などと思ってみたりみなかったり。
食いながら語っても、ないですけどね説得力。もぐもぐ。
そんなこんなでミンク鯨をむさぼり食っているのであるが、思えば、どんな種かわかっていて食する鯨は初めてだなあ。もぐもぐ。
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