207 98.11.24 「大切なことは」
いかがなものか、と思うのである。思ったのは私である。思われてしまったのは、「甘塩秋さけ(大切)」二百円也である。鮭の切り身が二切れ入ったパックである。昨日、近所のスーパー大黒屋で購入したものである。
さて、ホイル焼きにでもするかいな。と、冷蔵庫から取り出したところで、私は驚いた。パックに貼られたステッカーを何気なく見やった私は、その商品名が持つ奇怪さに気づいてしまったのである。「甘塩秋さけ(大切)」である。なんだこれは。どうなっておるのだ。
言うに事欠いて、た、大切ときたか。たいせつ、などと、自ら名乗るか。
私は惑乱した。
「大切なことは、そう、ここに~ある~」
などと、ハヤリ歌を思わず口ずさんでしまったほどである。
たとえば、「エバラ・焼き肉のたれ(大切)」などという商品は存在し得ない。「トヨタ・カローラ(大切)」なども同様である。およそ商品たるもの、自らを(大切)と主張したりはしないのである。「大切にしてね」などと仰るのは霊長類ヒト科の女性の一部くらいであろうが、もっともこれは商品ではない。自らを大切と称しながら恬淡として恥じない商品は、「甘塩秋さけ(大切)」をもって嚆矢となす。
もちろん、たいせつと読むのではない。しょせんは鮭の切り身である。おおぎり、なのであろう。当スーパー大黒屋は、ちょいと大きめに切ってみました、大切りなんです、うふふふふ、と言っているだけなのであろう。笑止なり、甘塩秋さけ。
だったら、送り仮名をちゃんとつけんかい。と、いきりたってみたりする私である。なぜ、り、を略すか。り、は大切である。それがモノゴトの理ではないのか。いや、大切れ、かもしれぬ。れ、も大切である。お出かけですか、と問い掛けながら路上を掃除するためには、それはもう大切である。いやいや、大切る、も捨て難い。わけはないか。
大切りとはいっても、さほど大きな切り身ではない。鮭の図体など、高が知れている。スーパー大黒屋が訴えんとしているところは、つまるところその切断の思いっきりのよさであり、正確を期すならば、むしろ厚切りが正しい。ならば、なぜ、厚切りと明記しないのか。もしかすると、大喜利の洒落なのだろうか。甘塩秋さけと掛けてなんと解く、と問い掛けておるのであろうか。そうかもしれぬ。ふむふむ。甘塩秋さけと掛けて、完全無欠のロックンローラーと解きます、などと不毛な妄想を抱いているうちに、やがて鮭のホイル焼きができあがった。
やっぱり、大切とくればダイキリが似合うのかもしれぬ。が、そんな用意はない。本日はシャブリの出番なのであった。大雪山は北海道にあるが、大切なシャブリは、そう、ここにあるのである。私は、鮭とともに堪能した。
ほろ酔い加減でつらつら考えるに、スーパー大黒屋にはスーパー大黒屋なりの内規というか不文律というか社長の鶴の一声というか、なにかそういった余人には伺い知れない社外秘の法則があるのではないか。大切りでも厚切りでもなく、大切。魚の切り身を厚く切ったら、(大切)。括弧、大切。
目覚めよ、スーパー大黒屋。そろそろ我にかえる頃合いではないか。いかがなものか、と思っているのは、私ひとりではないはずだ。大切なことは、いったいどこにあるか私にもわからないが、少なくともそこにはないだろう。
頑張れ、スーパー大黒屋。負けるな、僕らの大黒屋。世界でいちばん、君を愛してはいないが。
ところで、そのココロは、別にないから、気にしてはいかん。
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