184 98.06.01 「そんなピロシキに騙されて」
「たまには遊びに来いよ」
電話がかかってきて、そう誘われただけである。私にはなんの落ち度もない。
「かみさんがピロシキをつくり過ぎちゃったんだよ。食べに来いよ」
と、その友人は舞台裏を明かす。残飯整理係というわけである。そういうことであれば気が楽だ。
「ゑ。風呂敷をつくりすぎた?」
などと軽口を叩く余裕もうまれようというものだ。
「ピロシキだってば」
「ああ。ピロシキね。ロシア料理の」
私は間違っていた。なにが、「ああ」であろうか。私はまたしても致命的な誤謬を犯し、しかもそれに気づいていなかった。次の私の発言にその失態の一端が潜んでいる。
「しかしなんでまあ、この時期にピロシキなんだ」
「ん。ピロシキに時期なんてあるもんなのか」
と、友人は当然の疑義を呈した。私は、冬のもんじゃねえかなあ、と思っていた。まったくの思い違いだったのだが。
ここで双方の疑問を掘り下げていれば、その後の私の失態とそれに伴う屈辱は生まれなかったのであるが、その時点における私の関心は、例によって例の方面へ向かっていた。
「ま、いいや。ピロシキは好物だから、いくらでも食うぞ。で、ビールはあるか」
なぜ話をそこへ持っていくか、私よ。
「ビール? あんまりないな。つまり、おまえが鯨飲するほどには、という文脈においてだが」
いったい私は、どういう文脈の中で生きていると思われているのであろうか。
「じゃあ、自分で呑む分は買っていくよ」
私はすかさず応じていた。そういう情けない文脈らしい。なにかしら物悲しい。
早速ビールを抱えて友人宅を訪れたところ、鬼門の幼稚園児に出迎えられた。友人及びその配偶者がその本能的な欲望に身を委ねたあげくに誕生したヒデユキという人物である。こやつは妙に人懐こい性格を有しており、私はなぜかこやつの好評を博している。精神年齢に近いものを感じているのであろう。
「ぴろしき~」
両手に揚げパンを持ち、私に抱きついてくる。
「ば、ばかもの。や、やめろ。そんなものを持ったまま抱きつくんじゃないっ」
しかし、もはや私のスラックスはあぶらまみれである。
「どんな教育をしてんだよ~」
ヒデユキの背を押しながらダイニングキッチンに入っていくと、友人はげらげら笑いながら、「だめだよ、そんなことをしちゃ」と息子を一応たしなめた。あまりにも、「一応」があからさまな態度である。現に、ヒデユキは「そんなこと」がなんなのか、いっこうにわかっていない様子である。
この家庭においては、私の人格はきわめて蔑ろにされている。
従って、馬鹿でかい皿の上に満載となっている揚げパンについて、私にはなんの説明もなされることはなかった。
「まあ、食えよ」
「どうぞどうぞ、いっぱいありますから」
と、友人及びその妻に勧められるままに、ふたつみっつと食いながら二本三本とビールを飲み干し、世間話などに興じていたのである。
「うん。このパン、うまいね。うまいっすよ、奥さん。なあ、ヒデユキ、うまいよな」などと、能天気に口走っていたのである。
「うまいうまい」
ヒデユキも全面的な賛意を表明してはばからないのであった。
実際に、たいへんにうまい揚げパンであり、いくつか持って帰ってよいかと申し出てしまったほどであった。製作者であるところの、友人の妻でありヒデユキの母である女性は大いに喜び、低落傾向であった私への評価は一気に上昇の気配を見せ始めた。
つまるところ、その揚げパンこそがピロシキであったわけだが、私が想定していたピロシキとはそういうものではなかった。私の脳裡では、揚げパンとピロシキが等号で結ばれることはなかった。
この家庭における私は、ヒデユキに妙な親近感を得ている他にはなんらの立場もない。その私が、たとえばこうした言辞を弄せば、一瞬のうちに場が凍りつくのは理の必然であろう。
「そんで、ピロシキは、いつ出てくるの?」
それはすでに出ているのである。目の前にあるのである。しかも、食っているのである。あまつさえ、絶賛しているのである。
微妙な空白の時間が流れた。
私のシャツの肱のあたりを、ヒデユキが引っ張った。その場の空気を察したのか、小声で言った。
「ぴろしき、ぴろしき」
揚げパンの皿を指さしている。
む。
むむむむむ。
「これって、ピロシキ?」
私は、そう言っていた。実にどうも、間の抜けた科白もあったものである。
「おまえさ」友人が呆れ返っていた。「なんだと思ってたの」
「いや、揚げパン、かと」
答える口調が弱々しい。友人の妻でありヒデユキの母であるところの女性は、明らかに気分を害していた。さきほどまでの友好的な雰囲気はいっさいなかったことにしようと努めているようであった。
「じゃあ、訊くけど」友人は言った。「おまえがピロシキだと思っていたのは、いったいどういうものなんだ」
私は打ちひしがれて「私のピロシキ」を詳しく説明した。
「おいおい」と、友人は言った。「そりゃ、ボルシチだって」
あ、そうだ。ボルシチボルシチ。電話を受けて以来、私の脳裡にはボルシチ様のお姿があったのだ。いわゆる、赤蕪の色彩が鮮やかな野菜スープである。私は、それが余っていると聞いて駈けつけてきたのである。ピロシキと耳にしながら、ボルシチを脳裡に思い浮かべていたのである。
まるっきりの勘違いではあった。
よそよそしい空気は去らず、私は空回りの抗弁を試みた。
「似ているではないか。四文字で構成されているし、三文字目の「シ」が同じだ。最後に「い」の段できっぱりと締めているところもたいへんな類似といえよう」
しかし、何を言っても、虚しいばかりであった。
ヒデユキが、私の肩をぽんぽんと叩いた。
「きをおとすなよ」
と、ヒデユキは言った。
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