179 98.05.07 「めくるめくほどめくる」
妙なことにこだわり続けるうちに変な習慣が身についてしまったひとはいるもので、就寝前に必ずコサックダンスを三分間踊らないと落ち着いて眠れない輩や居酒屋ではまず最初に鮭茶漬をたいらげてからでないと気持ちよく飲酒に突入できない人物などが、私の周囲ではよく知られている。ずいぶんヤな周囲に取り込まれたものだが、なんにせよ彼等はそうしないと落ち着かないし気持ちが悪いのだから、仕方がない。自らに染みついた習慣を遂行せねば居ても立ってもいられないというのだから、勝手にそうしてもらうしかない。
そういうひとはどこにでもいるのだろう。
たとえばこのおとうさんの場合は、月の変わり目にカレンダーを切り取るまさにその時刻に並々ならぬこだわりを持っているらしい。その述懐を聞くともなしに耳にした限りでは、その執着ぶりにはもはや病的な気配が漂っていることは否定しがたい。
本人もいささか後ろめたいのか、相棒のおとうさんに縋るのであった。
「いや、どうにも気になって気になってしょうがないんだよ。キノシタさんは、そういうことない?」
「ないよ、そんな。ヤノさん、それ、ちょっとおかしいよ」
キノシタさんは冷淡に言い放つのであった。
私もキノシタさんの見解にまったく同感である。ヤノさん、それ、ちょっとおかしいよ。
電車の中でたたたま隣り合わせただけの見ず知らずのおとうさん達だが、もしどちらかに同心せざるを得ないのならば、私は迷わずキノシタさんに与したい。キノシタ派の走狗と呼ばれて結構だ。ヤノ派の黒幕の座が用意されていたとしても御免蒙りたい。
つらつら聞いてきたが、ヤノさんの性癖は異常である。いや、だったらいったいなにが正常なのかと問い詰められても困ってしまうのだが、少なくともヤノさんと共に生活するのだけはなんとしても避けたいと強く願わずにはいられない。
毎月一日午前零時零分にカレンダーを切り取らないと気持ちが悪い、というのがヤノさんが抱えた習癖であった。午前零時零分零秒に近ければ近いほど絶頂感は高まる。たいていの場合、終わろうとしている今月分の一枚を半分ほどめくりながら、時報を待っている。時報が鳴り新たな月が訪れた瞬間、ヤノさんはびりびりと先月分になりたてほやほやの一枚を一気にめくって引き破る。
「いやあ、それがめくるめく快感でねえ」
とは、ヤノさんの言である。駄洒落のつもりであろうか。
その後のヤノさんは忙しい。当然のことながら、カレンダーは家中に存在する。各部屋を遍歴し、すべてのカレンダーを新たな月に衣更えさせなければならない。ヤノさんは喜々として家中を練り歩く。しかも、通常の家庭の倍の量のカレンダーである。月に一度の愉しみを増幅させるための努力を、ヤノさんは怠りはしない。
「それに、二ヶ月単位のカレンダーは飾ってないんだ」
ヤノさん、自慢げである。
「あんなのは、邪道だよ」
邪道か。邪道だったのか。ヤノさん、あなたの行く道は私には邪に見えるが、私の気のせいなのであろうか。
しかし、それでも理性は残されているらしい。月に一度の愉しみだからこそ感動が高まるのだと、ヤノさんは主張するのであった。
「だから、日めくりカレンダーは我が家にはおかないんだ」
なにが「だから」なのかがそもそも不可解だが、それは確かにそうだろう。
キノシタさんは、うなずきながら聞いていた。一言も発しない。ようやく発したかと思えば、件の冷淡な発言である。私も唱和したい。ヤノさん、それ、ちょっとおかしいよ。
目下のヤノさんの悩みは、この春から高校生になった長女の態度なのだそうである。もちろんヤノさんは、毎月一日の午前零時三分頃に長女の部屋に乱入する。そこにも当然カレンダーは存在する。私は、ヤノさんの長女に同情を覚えた。幼少期からの習慣で父親の奇癖には慣れっことなっていた長女だが、予めわかっているとはいえ、さすがにそんな深夜に自室にやって来られるのはたまったものではなかろう。彼女の生活は家庭というものから離れつつあるのだ。
「最近、ナツミの奴、露骨に嫌な顔するんだよ」
ヤノさんは弱々しくこぼすのであった。
そりゃあ、ヤだよな、ヤノナツミちゃんよ。
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