178 98.05.02 「ありがとう山本君」
尾行されている。最初は気のせいかと思ったが、どうやら思い過ごしではないらしい。
怖い。いやその、実に怖い。
帰途の夜道である。あたりに人影はない。
駈けだしたくなる心情をぐっとこらえ、とりあえず足を速めると、尾行者も一定の距離を保ってついてくる。歩速を緩めても同様の対応だ。明らかに尾行されている。
近年世間で喧伝されているストーカーというものであろうか。いやいや、そんなことはなかろう。いったい、私がストーキングの対象となりうるタマであろうか。それはありえない。自慢じゃないが、私はそれほど魅力のある人相風体を有してはいない。欺瞞じゃないが、本当だ。
きっと私は、自らが勝手に描いた幻想を怖がっているだけなのだ。勘違いなのだ。振り向けば「なんだ。ストーカーじゃなくて須藤か。脅かすなよ~」といった展開になるのだ。なんちて。などと、上滑り気味の駄洒落で自分を落ち着かせようとするが、すぐに須藤という友人はいなかったことに思い当たり、恐怖はますます募っていくのであった。今ならもれなく私の友達になれます須藤さん。助けてください、全国の心ある須藤さんっ。
そもそも駄洒落で心を落ち着かせようというのは、なにか人の道に背く行為ではなかったか。一方では、そんな場違いな反省も芽生え、いよいよもって惑乱は深まっていくのであった。
ストーカーでなければ、私は殺されるのかもしれない。尾行者は私を殺そうとしているのだ。自分の知らない間に他人から深い恨みを買っていることがあっても、とりたてておかしくはないだろう。だいたい人は、誰かから恨まれているものである。気づかないだけだ。まあ、いちいち気づいていたらジンセイやってられない。
たとえば某月某日、私がとあるスーパーで辛子明太子一パックを購入したとしよう。それは最後の一パックだった。ほんの数秒遅れて辛子明太子を入手できなかった前田吟(仮名)は、妻の厳命を全うすることができなかった。彼はその後、「満足に辛子明太子も買って来れない愚かな男」として、妻から激しい叱責を受けた。屈辱であった。そんな前田が私を逆恨みしたとしても、致し方ないところであろう。ある日、とはつまり本日のことだが、鬱屈を抱えた前田は彼の目前から辛子明太子を奪った男を発見した。殺してやる、と前田は咄嗟に決意し、今まさにそれを実行せんとしておるのだ。
ひええ。と、私はすくみ上がった。落ち着け前田。もっと自分を大切にしてはどうか。まだ遅くはないぞ前田。好物が辛子明太子ではない女性と、新たなジンセイをやり直してみてはどうだろうか。
「ライター」
と、前田は言った。
うひゃあ。私は飛び上がった。
ライターとはなんだ、私を火だるまにしようというのか前田。早まるな、落ち着いて話し合おうじゃないか前田。
もちろん、尾行者は前田吟(仮名)などではなかった。恐怖に駆られて振り向いた私の目に映ったのは、ランドセルをしょった少年であった。低学年とおぼしい。
「落としたよ、ライター。駅で」
少年は、ライターを差し出した。私のものである。
「君の苗字は、前田じゃないよね。もちろん、須藤でも」
なにが、もちろんなのか。激しく取り乱した私は、およそ見当違いな質問を彼に浴びせかけるのであった。
当然のことながら、少年はきょとんとした。
「山本、だけど」
どっと安堵が押し寄せ、私はへなへなとその場にしゃがみこんだ。腰がくだけつつも、目線を君の高さと合わせるためにしゃがみこんだんだよ、といった演技を振りまくのも忘れない。遅すぎる虚勢、といったものであろうか。
「そ、そうか、山本君か。あ、ありがとう」
私は、山本君からライターを受け取った。
「ありがとうありがとう。そうかそうか、駅で落としちゃったのか」
ここまで、かなりの距離がある。声を掛けそびれているうちに、私が不必要に身構えててしまい、余計に声を掛けにくくなってしまったらしい。すまなかった山本君。私が愚かであった。自らが産み出した妄想に苛まれていた私が馬鹿だった。反省している。許してくれ山本君。二度とこんなことはしないと誓うよ山本君。
私が内心で固く誓っていると、山本君はあたりを見回した。
「ここはどこ」
私の背中ばかりを見つめていた山本君は、迷子になってしまったのであった。申し訳ない山本君。
結局、駅まで山本君を送り届けた。反対方向に遠去かっていく山本君の背中を見送りながら、私は煙草をくわえた。問題のライターで火をつける。
山本君の親切が身に染みる一服であった。ありがとう山本君。
さて、帰るか。言っておくが前田吟(仮名)、もうあんたの幻影に怯えるさっきまでの愚かな私ではないぞ。
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