177 98.05.01 「突然のレモンバーム」

 たとえば、愛媛県は伊予市内で飼われている犬の名前で最も多いのは何か。
 といった事柄と同様に、私にはまったく興味がないのである。
 興味はないのだが、手にしている。レモンバームとかいう植物の種だ。この小さな紙袋に何十粒かが納められているようだ。理性的に考えると、そうなる。
 狐につままれたことはまだないし今後もなかろうかと思うが、とりあえずそんな気分だ。茫然となった。
 昨日まで、私とレモンバームの間には、なんらの接点もなかった。お互いがお互いのつつましやかな生活を、それぞれに営んでいたのである。レモンバームのほうはどうか知らないが、取るに足らない営為ではあっても、私は私でそこそこの幸福を享受していたのである。
 そこへ突然のレモンバームだ。
 私は混乱するばかりである。
 突然のレディーボーデンとか突然のバニーガールといったものであったなら、なんらかの対応は可能だろう。むさぼり食うなり押し倒すなり、誰の目にもわかりやすい反応はできる。欲を喚起する反応ならば、たやすい。
 しかるに、レモンバームである。どうしてよいかわからない。欲しいかどうかという以前に、まるで興味がない。正確にいえば、レモンバームに興味がない自分を初めて見出したのである。植えろ、と、いうのか。植えろっと言われてもっ今では遅すぎたっ。などとヒデキの替え歌を口ずさむのが精一杯である。それにつけても、私の精一杯は、かなり物哀しい。
 シューキョーのひとが無理やりに私の手に押しつけていったのである。宗教のひとである。ホドコシの一環であろうか。呼び鈴に促されてドアを開けると、いきなりなんやかんやとしゃべり出した。毎度お馴染の焦点の合わない瞳と心がこもっていない流暢な口調だ。こちらに口を差し挟むいとまを与えてくれない。三ヶ月ならとってもいいよ、でも洗剤はもう一箱オマケしてよ、などと軽口を叩く余裕をいっさい与えてくれない。で、挙げ句の果てにレモンバームの種だ。
 駅前でポケットティシューを配った体験があるのだろうか。並々ならぬ鮮やかな手際で、素早く差し出すのであった。絶妙の呼吸であり、私はついつい受け取ってしまった。
 なぜ、種なのか。なぜ、レモンバームなのか。シューキョーのひとの発想は、突飛である。凡人には想像もつかない。
 ハーブの一種だろう。そのくらいは想像がつく。しかし、なぜ、ハーブなのか。こともあろうに、なぜ、レモンバームなのか。シューキョーのひとよ、私はあなたがわからない。
 将棋の羽生さんや沖縄のハブさんなどと私との関係は希薄である。バーブ佐竹さんとも、とりあえず関わりがない。しかし、ハーブたるところのレモンバームさんとついつい関係を持つに至ってしまったのである。宿酔いを抱えてふと目覚めると傍らにうら若き女性の裸形があった、といった体験はまだないが、そういったところであろうか。
 しばらく狼狽は続き、私はようやく我に返った。
 返さねばならぬ。なんとしても、返さねばならぬ。
 幸いなことにシューキョーのひとの布教活動は隣室で留まっており、私はいささか友好的とは言いかねる押し問答の末、返却に成功した。
 あぶないところだった。耐え難い重荷を背負うところだった。くわばらくわばら。油断も隙もないな。おそるべきは、シューキョーのひと也。
 さて、相変わらずまるっきり興味はないのだが、愛媛県は伊予市内で飼われている犬の名前で最も多いのは、やっぱりオーソドックスに「シロ」だと思う。
 いや、ぜんぜん興味はないんだよ、ほんとほんと。

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