174 98.03.24 「歩行者グランプリ」
私の前に道はある。市の道路課か街路課の皆さんがつくったのであろう。私の後ろにも道は出来ている。当たり前だ。ああ、自然よ。父よ。って、もういいか、そんなこた。
私の往く道は、駅へと続いていた。駅に向かっていたので、当然である。駅に向かっていたのに馭に辿り着いたら、それはあまりに情けない。これまでの人生はいったいなんであったかと問い直さねばならなくなる。問い直せば収拾がつかなくなるに決まっている。そういうわけで、駅へ向かっているのなら、駅に辿り着くしかないのであった。哀しい話ではないか。
あ、いや、べつに哀しくもなんともないな。
で、馭というのは、いったいなんであろうか。はて。
まあ、わからないことはわからいままにしておくのが、庶民の知恵というものであろう。私は、駅へと至る道をごく普通の速度で歩いていたのである。私の普通と世間の普通との間には往々にして著しい落差が認められるが、いまはそうした寂しい現実には目を背けたい。
背けていたところ、いきなり両側から私は追い抜かれた。私は普通の速度で歩いていたのだから、両側から私を追い抜いた二人は異常な速度と断ぜざるをえない。二人とも歩いてはいるが、それはほとんど競歩の世界なのであった。
なんだなんだ、いったいなにが起こったのだ。私は、びっくりしたり驚いたりしてみたが、いや、それはあんまり変わらんな。とにもかくにも、驚愕したのであった。
右側から私を追い抜いたのは学生風のおにーちゃんであった。若さに任せた大股でぐいぐいと進んで行く。とりあえずセナとしておこう。左側から私を追い抜いたのは会社員風のおとーさんであった。プロストとはまったく似ても似つかないが、便宜上そう呼んでおこう。
二人は、無言で張り合っているようであった。追い抜き、追い抜かれ、並び、また追い抜いては追い越されているらしかった。なにかちょっとしたボタンの掛け違いのような些細な発端があったのだろう。行き掛かり上、張り合わなければならなくなったようであった。くだらない意地に支配された二人なのであった。
意地はたいていくだらないが、ひとたびこやつに取り憑かれたら、これはもう、貫くしかない。貫かねば、自分が崩壊するのだ。私も、足を速めた。この勝負の行方はぜひとも見届けねばならない。二人との間隔はなかなか縮まらなかったが、私にも野次馬としての意地がある。ちっぽけな意地だが、それは貫かれられなければならない。意外なことに、私にもアイデンティティというものはある。私は野次馬としてこの世に生を享け、野次馬として死んでいく運命にある。私は歯を食いしばって、二人の背を追いかけた。
フィニッシュラインは駅にあるのだろう。二人の胸の裡に翻っているであろうチェッカードフラッグは、いったいどちらに振られるのか。
二人は道路の右側の歩道を歩いている。即ち、次の右コーナーはセナがインをとる。金物屋コーナーと、のちに私に命名されることになる直角の右カーブに、セナは猛進して突入した。
若さがセナのアキレス腱だった。いささか速度が超過していた。老練なプロストがその隙を見逃すはずはなかった。セオリー通りにアウトインアウトの軌跡を描いたプロストは、クリッピングポイントでインを差し、オーバーランしたセナを鮮やかに抜き去った。だてにシャカイの荒波を泳いできたわけではない。歩幅は小さくとも、合理的なライン取り。練達の会社員プロストには、その点に一日の長があった。
一方、学生セナにも武器はあった。アキレス腱となった若さこそが、彼の切り札だった。その脚力もまた賛えられてしかるべきであろう。道は短いストレート。セナはプロストのスリップストリームに入り、ストレートエンドの手前で一度右サイドにモーションをかけたあと、鋭くプロストの左サイドに切り込んだ。お手本通りの戦術であるが、セナの脚力が勝り、二人はサイドバイサイドで次の左コーナーに進入した。セナの思惑通りの展開である。あっけなくプロストを追い抜いた。
道は左へと緩やかなカーブを描いている。幾多の歩行者をたじろがせてきた高速コーナーであり、斯界では旭町の130Rとして名高い。前に立ったセナは、セオリー通りにインをきっちりと守った。縁石、正確には歩車道境界ブロックぎりぎりを、舐めるようにインベタで攻めていく。遠心力をこらえながら、最短距離を歩み続ける。歩速は落ちない。テクニックとパワーが高度な次元で結び付いた芸術的な歩きだ。
さしものプロストも、付け入る隙を見出せない。それどころか、セナに置いていかれまいと精一杯の歩行であるようにも見受けられる。プロスト、ここは踏んばり所だろう。このコーナーを乗り切りさえすれば、まだチャンスはふんだんにある。これまでの半生で積み上げてきた老練なテクニックを活かすポイントは、まだまだ行く手に控えている。プロストもここはじっと堪えて次の機会を伺うべきと判断したのか、セナとの離間を最小限に食い止めることに専念するつもりのようだ。
とはいえ、高速歩行に変りはない。私としては辛い展開となった。時おり小走りにならないと、二人についていけない。あくまで歩行のストイシズムに徹する二人には申し訳ないが、ここはひとつ、報道の立場ということで勘弁してもらおう。って、いつから報道関係者になったのか、たかだか野次馬のくせに、猪口才な野郎だな。すまん、オレが増長していた、許してくれ。いやいや、わかればいいんだわかれば。などと、内心でもうひとりの自分と不毛な論争をしているうちに私も130Rを通過した。
予期せぬ出来事が勃発した。プロストが一気にセナの背に迫り、その距離は瞬く間に急接近した。二人の前方に、横道から不意に障害物が出現したのだ。歩道いっぱいに広がって歩く三人組の女子高生というものであり、自らの存在がいかに世間に迷惑を及ぼしているかといった類の疑念をけして抱くことのない集団だ。セナが真っ先に被害を蒙った。快調に飛ばしてきたセナが一気にスローダウンした。このセナは、周回遅れの処理が苦手らしい。女子高生に青旗を振るオフィシャルがいないのも不運だった。
その反面、プロストは果断だった。眼前の状況を見て取るや否や、いきなりエスケープゾーンに出た。即ち、車の通行が途絶えた一瞬を見計らって車道に降りたかと思うまもなく、一挙にセナと女子高生を抜き去り、素早く歩道に戻った。好機を逃さない鋭い観察力が功を奏したといえよう。己の判断に対する満々たる自信に裏打ちされた敏捷な動きもまた、素晴らしい。円熟の歩きである。
セナは焦った。プロストに続こうとしたものの、車道は再び車に満ちている。その間にもプロストの背は刻一刻と遠ざかっていく。セナは強引に女子高生の間に割り込んだ。暴挙である。たちまち、彼女達は悲鳴をあげた。しかし精神的に追い詰められたセナに、彼女達を気遣うゆとりはなかった。「このスケベオヤジ」などといった彼女達の罵声を背に受けながら、余裕を喪失したセナはがむしゃらにプロストを追った。
セナのすぐ背後まで迫っていた私も、セナに続いて彼女達を追い抜いた。中腰になり、前方に差し伸べた右手をひらひらさせながら、「どうもどうも、お嬢さん方、ごめんなすって」といった態度を滲ませたのがよかったのかもしれない。セナに続く私を、女子高生達は咎めなかった。彼女達も、他者の通行を妨害していた己の誤謬にようやく気づいたらしい。それ以上セナを責めたてることもなかった。
サーキット上で起こったすべての事象を巧みに利用するプロストは、この機に悠々とリードを築いていた。セナも徐々にその距離を縮めつつあったが、駅はもう近い。右手のワンブロックを占めるデパートを過ぎれば、駅前のペデストリアンデッキへ続く昇り階段がある。その階段を昇り切れば、駅は目前だ。セナに残された時間はあまりなかった。しかも悪いことに、これから階段に至る歩道は、放置自転車の巣窟でもあった。自転車シケインとも呼び習わされるこのコース最大の難所を、セナは克服できるのか。
セナにも、まだチャンスがあるだろう。現在のビハインドを保持できるのなら、望みはある。階段、そしてそれに続く周囲に制約のないペデストリアンデッキ。セナの得意な区間と看て間違いはない。勝敗の行方は、最後の最後までわからないようであった。
プロストの歩きは冴え渡っていた。小刻みな歩調で軽やかに放置自転車を躱していく。華麗な歩きだ。いささかテクニックに難のあるセナは、その驚異的な脚力で劣勢を挽回せんと試みるが、なかなか思い通りにはいかないようだ。私は、二度ほど自転車を倒しては立て直し、大いに遅れを取った。おまけに膝に打撲を負った。ちょっと、痛い。ほんとは、とても痛い。報道者生命の危機である。もはやレポートできないのか。私は暗澹たる思いを抱えて、遠ざかりつつある二人の姿を目で追った。
そのとき、レースは唐突に終了した。
プロストが傍らのデパートに入ってしまったのだ。茫然とした様子でしばらく立ち止まっていたセナだったが、やがてとぼとぼと歩きだした。私も心持ち片足を引きずりながら、彼のあとに続いた。
負けだ。セナの負けだ。プロストが本当にデパートに用があったかどうかには、いささか疑義が残る。優位を保った状態で勝ち逃げの挙に出たのかもしれない。しかしそれでも、勝ったのはプロストであり、負けたのはセナだ。なにより、屈辱に堪えているかのようなセナの肩の震えが、それを雄弁に物語っている。セナが、負けた。
だが、実は、負けたと思い込まされているだけなのであった。
ゆっくりと階段を昇り切ったセナは、そこで立ち止まった。握った拳がわなわなと震えている。ひと呼吸遅れて、私もセナと同じ人物を目撃した。今まさに駅の構内に吸い込まれていくその人物こそは、プロストのおとーさんに他ならなかった。
一階からデパートへ入ったプロストは、二階からペデストリアンデッキに出て、栄光のチェッカードフラッグを、今、受けたのだ。鮮やかな作戦勝ちであった。プロストはおそらく、自らの脚力を鑑みてこのリードをゴールまで保つことはできないと賢明にも悟り、一見無謀とも思える大胆なショートカットを敢行したのだろう。その策略たるや、やはり歴戦の強者ならではの見事な勝負勘の賜物であろう。
おとーさんの勝ちだ。完勝だ。おにーちゃんの負けだ。完敗だ。
いいレースを観させて頂いた。野次馬冥利に尽きる貴重な体験であった。ただただ満足である。
脱力しているセナのおにーちゃんよ、まあ、しょうがない。次こそは、勝とうな。先ほどの女子高生が君を不快げに見やりながら追い抜いていくが、そんなことは気にするな。さあ、駅まで歩いていこうじゃないか。とにかく、歩いていこうじゃないか。
この遠い道程のため。って、もういいんだったな、そんなこた。
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