172 98.03.16 「そこのけそこのけ」

「ニンニン」
 歩道を歩いていたところ、背後からそのような声が聞こえた。ハットリ君じゃないことは確かだが、かといってケムマキ君でもないだろう。とりあえず私には関わりのないことのように思われたので、さして気にも留めずそのまま歩き続けた。
 しかし、それは私の背中に向かって掛けられた声だったのである。
「ニンニン」
 今度は明らかに苛立ちを滲ませている。しかも私のすぐ背後から発せられている。気配を探ると、どうやら自転車に乗っているらしい。私を追い抜きたいようだが、それがままならず、いささかお怒りの御様子である。その自転車のベルは壊れているのだろう。ライダーは仕方なく自らの声帯を駆使することで、ベルの代用としているもののようだ。私の耳には「ニンニン」としか聞こえないが、おそらく「リンリン」と言っているのだろう。
 ちょうど、看板やら放置自転車やらが錯綜している箇所で、ひとが通り得るスペースはたいへん狭くなっている。私は足を速め、急いでその隘路を通り過ぎることに活路を見出そうとした。公道コースは抜きどころが問題だ。彼には束の間我慢してもらい、一刻も早く広いスペースに出たあとで、彼には存分に追い越して頂こうとする狙いである。
 しかし、私のそういう姑息な対処は、彼のお気には召さないようであった。全くもって、召さないのであった。どけどけ、すぐさま、脇にどけ、どけって言ってんだろ、といったところが彼の見解なのであった。
「ニンッ、ニンッ」
 怒っている。
 なにかしら妙なアクセントが気になるが、「おらおら、さっさとどかんかい、われ」といった切迫した主張が言外に明白に感じられる。キレたりされると困ったことになるので、私は仕方なく路肩の看板と放置自転車との隙間に身をよじ入れた。
 やれやれ。なにをそんなに焦っているのだろう、とも思うが、彼には彼の事情があるのだろう。さあ、オレはよけたぞ。あんたの道をつくったぞ。勝手に行ってくれ。
「あ」
 目前を通り過ぎる彼の姿を見て、私はいささか意表をつかれた。
 彼は若い黒人なのであった。驚く必然性はまるでないのだが、驚いてしまう私なのであった。人口十万人に満たない地方都市である。あまり黒人は見掛けない。そういうところで黒人に後ろから煽られるというのは、滅多にない体験なのではないか。
 してみると、彼は駅前に林立する英会話教室の講師で、講義の時間に遅刻しそうで慌てていたのだろうか。はたまた、この近くには陸上それも長距離に力を入れている企業があるが、彼はそこで次代のワキウリとなるべく研鑽を積んでいるのではないか。練習の時間に遅れそうだったのかも知れないが、自転車に頼るようでは遥々ニッポンまで来た意味がないのではないかと思う。
 彼の素性はどうでもよいが、「ニンニン」である。やはり「ニンニン」だったのか。誰か親切なニッポンジンが、彼に「この自転車のベルは壊れてるから、ベルを鳴らす必要があるときはリンリンと言うんだよ」と教えたのだが、彼の耳には「ニンニン」と聞こえ、彼はそう憶えてしまった。そんな経緯があったのかもしれない。
 一方で、あれは彼の母国語だったのではないか、という気もする。彼を育んだ土地では「どけ」という意味で「ニン」という言葉が使われるのかもしれない。
 私がなにやら感慨に耽っていると、歩道の先の方から、彼の「ニンニン」が聞こえてきた。あらあら。いつも同じように道行く人を蹴散らせるわけじゃないぞ。
 案の定、彼はどかそうとしたおにいちゃんに小突かれてしまい、「スミマセンスミマセン」と謝る羽目に陥った。しょうがねえなあ。私はウサギとカメの逸話を思い起こしながら、悶着を起こしている彼らの傍らをゆっくり歩き過ぎていくのであった。ニンニン。

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