148 97.11.25 「十円玉を見送る」

 昭和38年といえば、たとえばアメリカで「スキヤキ」がヒットした年であり、とにかく昔だ。その頃から十円玉をやっているのだから、この十円玉も様々な修羅場をくぐり抜けてきたことであろう。幼い松田聖子に握りしめられて駄菓子の対価となったことがあるかもしれないし、ペットボトルに詰め込まれて年末の日本武道館でスポットライトを浴びたかもしれない。あなたの財布で過ごした束の間の日々があったかもしれない。
 つい先頃からは、私の財布の中で次なる流通の時を待っている。
 その存在に気づいたのは今朝のことで、JRの券売機に無視されたことで私はこの十円玉を認識するに至った。券売機のセンサーが十円玉と見做してくれない。何度投入してもそのたびに吐き出される。その後、煙草や清涼飲料水の自動販売機で試してみたが、やはり結果は同じだった。機械は彼に十円の価値を認めない。偽造貨幣と同等の冷ややかな扱いである。五百円玉の偽造硬貨出現によってセンサーの精度設定が高められる風潮があるという話も聞くが、その余波であろうか。
 思い返せば、何日か前から時々自動販売機をただ通過するだけの十円玉があったが、それがこの十円玉だったのだろう。その間、対面販売の支払いで十円玉を手渡したこともあったはずだが、彼は巧みに逃れて私の財布の中に居座り続けたらしい。
 今しみじみと眺めやると、たしかにあちこちに傷がある。戦場を駆け抜けた三十有余年が彼に残した傷跡だ。苦難に満ちた彼の生きざまが忍ばれよう。更には、表面の文様がかなり摺り減っている。激動の時代をしたたかに生き抜いてきた彼は、身を摺り減らしながら己の任務をまっとうしてきたのだ。
 それをどうであろう。機械は彼を認めないのだ。十円玉として過ごしてきた彼の半生を黙殺しようというのである。そんな倣岸な態度がいったい許されるだろうか。経済大国ニッポンを蔭ながら支えてきた彼の歳月をなんと心得るか。
 とはいえ、彼もそろそろ第一線から退く頃合ではないか。後進に道を譲る潮時ではないだろうか。生まれたときから自動販売機に取り囲まれていた平成生まれの若人に、後事を託してもよいのではないか。
 たしかに時代は移ろい過ぎた。彼が誕生したときの価値を今の十円は持ち得ない。彼も昔の彼ではない。
 もういい、君はよくやった。引き際が肝心だ。私が介錯してしんぜよう。永遠の眠り就いてみてはどうか。もう機械だらけの世界へ戻る必要はない。人の手から手へと受け渡された甘美な記憶を抱いて、ゆっくり眠ってくれ。喪主は私が引き受けよう。
 なんらかの法令を犯しているとは思うが、土葬することにする。人間の葬儀の喪主を務めたことはあるが、硬貨のそれは初体験である。なにもかも取り仕切ってくれる葬儀屋さんはいない。お経など知らないので、とりあえず「上を向いて歩こう」を歌ってみた。一番は滞りなく歌うことができたが、二番の歌詞が思い出せなかったので、うやむやに打ち切る。埋葬するのは、部屋の片隅にあるポトスの鉢植えだ。根っこを掻き分けながら手厚く葬った。厚紙で墓碑をつくり、突き刺した。碑銘は「名も知れぬ戦士、ここに眠る。……なにが経済大国か」とした。我ながらセンスがない。最後に、三回まわってわんと言って、葬儀を終えた。
 さて、そんなことをしている場合ではなかった。
 なにしろ私はこれでも忙しいのだ。

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