149 97.11.27 「晩秋のキャンプ」

 いったい、いつの間に約束していたのか。さっぱり憶えていない。憶えてはいないが、我が甥であるところの勘太郎は、私が確かに約束したと主張するのである。オレはそのとき飲酒していたか、と問うと、よっぱらっていた、とのお答えだ。
 ならば、やむをえない。酩酊していたとはいえ、約束は約束だ。しらばっくれようと考えたのは事実だが、土曜午前九時の玄関先で、勘太郎は上目使いに私をじっと見つめるのであった。起き抜けで寝惚け眼の私は、たじろいだ。勘太郎の手にはバッグが握られている。着替えが入っているのであろう。私の敗北は明白であった。
「そ、そうだったな。キャンプな、キャンプ。す、すまんすまん。寝過ごしちゃったよ。あははは、は、はは」
 ああ、連休の神様、私に安息は許されないのでしょうか。
 許されないのである。勘太郎を連れてキャンプである。かねてより愉しみにしていたキャンプである。この日を待ち望んだキャンプである。私は知らなかったが、原勘太郎(12歳、小学生)の胸中では、そのようなプランが着々と進行していたのだ。
 給料前でカネもあんまりないことだし、うだうだ~っと寝てよおっと、というきわめて綿密な私の連休計画は幻と化した。
 予想もしていなかった展開の挙げ句、二時間後には、助手席に勘太郎を乗せて常磐自動車道を北上しているのであった。
 水戸インターで降りて、途中で食糧及び酒精の買い出しをする。ついでに勘太郎の着替えを調べたところ、事態をあまりに楽観視していることがわかった。急遽、厚手のセーターと目が密な生地でできたブルゾンを探し出し、泣く泣く購入する。
「こんなかっこわるいの、やだよ」
「ばかもの。デザインを云々している場合じゃないんだ」
 使うとは思いもしなかったクレジットカードで、勘太郎の額をひっぱたいてやった。秋キャンプを舐めるんじゃない。防寒対策は真冬を想定しなけりゃならんのだ。
 昼過ぎに現地に到着。とにかく昼食だ。備長炭を熾して七輪で餅を焼き、磯辺巻を三つほど食わせてごまかす。
 那珂川畔のこの河原はキャンプ場ではないが、すぐ傍にある道の駅とセブンイレブンでたいがいのものが揃う。それでいながら、いかにもキャンプをしてくださいといわんばかりののんびりした雰囲気が漂う恰好の野営地である。私のキャンプはただ単に星空の下で飲酒できさえすれば、どこであろうと気にしない。なによりここには水道とトイレがある。このふたつがあれば、どこだって野営に問題はない。なんでもこのあたりは関東の嵐山というのだそうであるが、なんとか銀座といった感覚でつけられたキャプションなのであろう。
 腹がくちくなれば、こころにゆとりが生じる。童心というものがにょきにょきと出現するのを抑えきれない。河原であり、跳び石がその対象となった。川面に石を投げて、何回跳ねるかを勘太郎と競う。はじめはでたらめだった勘太郎が、すこしばかりコツを伝授すると、たちまち上達してしまった。勝負することになった。先に二十回跳ねたら勝ちで、負けたほうが夕食をつくる。
「むふふふふ。後悔するなよ」
 四半世紀前には跳び石三十二回の未公認記録を持つ私である。負けるわけがないではないか。
 しかし勘太郎は、私の昔とった杵柄というやつをあっけなく打ち砕くのであった。
「えいっっっ」
 ぴょぴょぴょぴょぴょぴょん。
「あ」
 私の杵柄はどうなっているのだ。そもそも杵柄とはなんだ。見たこともないぞ。
 負けてしまった。しくしく泣きながら米を研ぎ始める私ではあった。
 御飯が炊きあがる間にテントを設営しなければならない。勘太郎を指図しつつ、一夜の宿を構築する。勘太郎にとっては初めての野外就寝である。すべてが物珍しいようで、喜々として作業にいそしんでいる。しかし初心者相手では遅々としてはかどらず、次第に陽が陰り始めてしまい、いささかうろたえる。
 素人キャンプというものは、食と住の確保にその時間の大半を費やされる。ほとんどそれしかやっていない。ようやく寝床を確保したときには、御飯が炊きあがっていた。すべておにぎりにしてしまう。
 次に、勘太郎にとってはおかずで私にとっては肴であるところのものをつくる。
 鮭の切り身、たっぷりのバター、適当な野菜をアルミホイルに包んで、七輪上の網に載せる。なんでもアルミホイルに包んで火を通せばなんとかなる、という野外生活基本法第九条第二項但し書きの準用である。そんな法令はないが。
 焼き鳥もつくる。肉を竹串に突き刺すこの単調な作業は思いのほか勘太郎の好評を博した。私は言葉巧みにこやつをそそのかし、ほとんどの工程を勘太郎に委ね切ることに成功した。さきほどの勝負の結果は忘れてしまったらしい。相変わらず騙されやすい奴で、微笑ましい。面倒なことは他人にやらせろ、という野外生活基本法施行令第五条第三項に規定された鉄則だ。だから、ないと言っておろうが。
 調理に用いる七輪とは別に焚き火を熾し、晩餐の準備は整った。
 おにぎりと焼き鳥を焼きながら、だらだらと食する。食事のお供は、私がもはや銘柄を忘れてしまった地酒、勘太郎はウーロン茶。
「あ。おいしい」
 焼きおにぎりを頬張った勘太郎が驚いている。わははは、思い知ったか、おき火の備長炭の底力を。丁寧に少しずつ醤油を染み込ませた私の手腕もさることながら、って自慢してもしょうがないが、やはり火持ちの良い炭にはかなわない。その前には、すべてが無力だ。
 焚き火を囲んで、勘太郎と話をする。失恋したなどと、いかにも焚き火的なことをぬかすので、驚く。
「どういう成り行きで失恋しちゃったんだ?」
「好きじゃなくなっちゃったんだ」
 それは失恋とは違うのではないか。
「失恋するとどんな気持になる?」
「たいしたことないね」
 それはそうであろう。
 将来への展望などというものも語るのであった。絵を描きながら旅をするのだそうである。
「まずはどこへ行くんだ?」
「箱根」
 なんだかよくわからない。
「その次はどこへ行くんだ?」
「ディズニーランドかな。あ。浦安のじゃないよ。アメリカのだよ」
 むきになってフォローするような事柄ではないように思うが。
「どんな絵を描くんだ?」
「きれいな絵だよ」
「漠然としてるなあ」
「いいのっ」
 まあ、よいのであろう。
 そのうちに勘太郎が欠伸をし始め、さすがに冷え込んできたので、いささか早い時間だが就寝することにした。
「夜中にしょんべんしたくなったら勝手に行けよ。懐中電灯はここにあるから」
「起こすからいいよ」
 起こされてたまるものか。トイレまではわりと距離がある。
「怖いのかよ」
「起こすからいいよ」
 怖いらしい。
 結局、夜中の三時に寝惚け眼で連れしょんとなった。
 朝食は夕べの残りで鶏雑炊。食後にお茶など啜りながら、私は文庫本を読み始める。勘太郎はそのへんをほっつき歩いていたかと思うと、そのうちにバッグからスケッチブックなどを取り出した。下流のほうを向いて座り込み、熱心に描き始めた。通りすがりのおねえさんが覗き込んで「上手ね~」などと誉めそやし、勘太郎を増長させる。勘太郎、得意満面である。いかんのではないか。
 オレも原稿用紙を取り出して雑文なんか書いてみよ~かな~、通りすがりのおねえさんが「上手ね~」って誉めてくれるかもしんないな~、などと一瞬自分を見失う。
 しゃくにさわったので、私は勘太郎の絵を酷評するために背後から近寄った。やややや。
「なあに」
 勘太郎が振り仰ぐ。
「い、いや、なんでもない」
 すごすごと引き返す私であった。こやつにこういう才が備わっているとは知らなかった。
 昼過ぎまでかかって勘太郎の絵は完成し、そこで撤退となった。
 車に乗り込む直前に、勘太郎は上流側にある橋を見上げて、ひとりうなずくのであった。
「よし。来週はあの橋を描こうっと。うん、そうしよう」
 ら、来週というのは、なんだ。

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