147 97.11.20 「甘くても辛くても」

「これ以上、幸せになんてなれないっ」
 と、雌叫びをあげたのは、島袋美紀さん(24歳、会社員)である。氏名年齢職業についてはこちらが勝手に想定しているだけなので、このいいかげんな手掛かりだけを頼りに那覇の街で彼女を尋ね歩くのはやめよう。
 那覇市の港湾部を臨むホテルの十二階に、そのバーはあった。カウンター席に、私はいた。バーテンダーの背後はガラス張りで、カウンター席に座ると夜更けの東シナ海が見える。私は三杯目のブラディメアリを飲みながら、内間康平さん(31歳、バーテンダー)と話していた。彼の素性も適当な想定なので探すのはやめよう。議題は、ブラディメアリに使用するトマトジュースである。結論からいえば、デルモンテであった。私は間違っていなかったっ。やはりデルモンテだったのだ。根掘り葉掘り聞くと、オープンの際に何種類ものトマトジュースを試してデルモンテに決定したという。そうだろうそうだろう。私もその結論に達してますとも内間さん。
 おこがましいが、大半のバーで出てくるブラディメアリは、私にもつくることができる。シェイクものは手も足も出ないが、ステアものは素人でも場数を踏めばなんとかなるものだ。必要なものを必要なだけ投入して混ぜればいい。気合や信念なども一緒に。
 とはいえ、バーで飲むカクテルには私がつくるものにはないものがいっぱい詰まっている。嗜む機会があれば逃してはならない。私は内間さんとブラディメアリについて語りながら、どんどん気持ちよくなっていくのであった。
「これ以上、幸せになんてなれないっ」
 私の席からスツールひとつおいて右隣にいた島袋さんも、ひたすらに気持ちよくなっているようであった。私は感動した。なにしろ気持ちよくなっているので、すぐ感動してしまうのである。ええセリフやなあ、となぜか上方風味で胸を打たれるのであった。おいしそうに飲酒する女性に過度の好感を抱く欠陥が招いたあやふやな思い込みなのだが、島袋さんってなんて素晴らしい女性なんだろうと、強く断定する私なのであった。
 そうかといって、その後の島袋さんと私がねんごろになり那覇の夜を熱く焦がしたかというと、もちろんそんなことはないのである。島袋さんのそのまた隣には彼女と染色体の数が異なる連れがいたからである。しかし、自ら進んでもちろんと断定することはないな。
 島袋さんと内間さんの会話を聞いていたところ、内間さんが島袋さんの要請によって即興のオリジナルカクテルをつくったことがわかった。ココナッツミルクとカルーアが島袋さんを幸せの絶頂に導いたらしい。
 はあ。なんだかそのカクテルは、私が永遠に近づかない場所にあるとしか思えない。よくもまあ、そんな甘ったるい酒が飲めるものである。しかし、無邪気にはしゃぐ島袋さんの姿は、カウンターにいた客のすべてをにこにこさせてしまうのであった。私も自然に顔がほころんでしまうのを抑えきれなかった。
 内間さんも気をよくしたらしく、私のもとへやってくると「メニューにはないんですけど、オリジナルのブラディメアリがあるんですが」と言った。
 ななななななぜそれを先に言わぬ。「くださいっ」
「辛いですよ」
「くださいっ」
「ほんとうに辛いですよ」
「くださいっ」
 どうも、むやみやたらには出さないカクテルらしい。どうやら私は「合格」したようである。ただただ嬉しい。
 内間さんはごそごそと広口の瓶を取り出した。
「なんですか、それ」横から島袋さんが、身を引きながら問いかける。
「ウォッカですよ」と、内間さん。「唐辛子とレモンの皮とハーブとその他いろいろ漬け込んであるんです」
 私はもう、うっとり。
「そんなの、飲めるんですかあ」
 島袋さんが呆れたように私を見た。私はおごそかにうなずいた。よいではないか。君は甘いカクテルを飲め、私は辛いカクテルを飲む。お互いにおいしければそれでよいではないか。
 ここはバーである。
 内間さんはカクテルグラスにスノースタイルをつくった。やややや。カクテルグラスときたか。そんなブラディメアリは知らんぞ。わくわく。あ。なぜシェイカーを取り出すか。シェイクか、シェイクするのか。わくわく。
 すすすっと目の前に差し出されたカクテルグラスに、内間さんは赤濁した液体を注いだ。
 好奇心を露にした島袋さんの視線を感じながら、私は、飲んだ。
「う、 、 、うまい」
 いやはやどうも、実になんともはや、こりゃあうまかった。
 あっという間に飲み干し、「もう一杯ください」などと口走る始末である。
 内間さんはにこにこして、島袋さんは驚いていた。
 本当に辛い。たちまち汗が吹き出たくらいである。うまいんだから、気にはならないが。
 島袋さんのように無邪気になるにはこれまでの時間が邪魔をしすぎて、これ以上の幸せがないとはけして思えない。とはいえ、幸せであることに疑いの余地はなかった。幸せである。
 更に一杯を堪能して席を立つときに、私は、かねてからいつか機会があったら言ってやろうと心に期していた言葉を、生まれて初めて口にした。
「おいしいお酒を、ありがとう」

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