145 97.11.15 「びよんびよん」

 私はなめこおろしに醤油をかけていた。なめこおろしはおいしいと思う。わかってくれとは言わないが、おいしいと思う。
 木下は、なめこおろしにはあまり興味がないようであった。上の空、という態度をあらわにしている。烏賊の下足揚げ、隠元の胡麻合え、鰹の酒盗といった珠玉の顔触れにも、なんらの関心を見せることがない。そわそわしている。久保田さえ味わうことなく機械的に呑み干している。居酒屋の異端分子と化していた。
 いきなり、木下は告白するのであった。
「おまえだから言うんだ」
 むむむ。醤油さしを置きながら、私は身構えた。
 カネか。カネに困っているのか木下。わかった。よくわかった。五千円くらいなら都合しようじゃないか。私もそれほど冷酷な人間ではない。友のためなら五千円くらいはドブに捨てよう。事情によっては、六千円までは力になってもよい。
「ちょっと恥しい話なんだけどさ」
 木下はためらうのであった。
 オンナか。女性問題の悩みなのか。その分野はたいへん苦手だが、相談には乗ろう。乗ってすぐ降りるが、不甲斐ないオレを責めないでくれ。
「実は、赤い矢印のことなんだよ」
 うつむいていた顔をがばっとあげて、木下は思い詰めた視線を私に放射するのであった。
 はにゃにゃ。
 赤い矢印。
 赤い矢印、である。私にはただひとつの事象しか想起できないが、まさかそんなもんとは関係ないだろう。わからん。
 どうしていいかわからず、私はとりあえず木下のぐい呑みに久保田を注いだ。
 それを一息に呑み干した木下は、意を決した口調で叫ぶのであった。
「ウルフルズだっ」
「あっ」私は思わず声をあげていた。「びよんびよん、かっ」
 いまこのとき、赤い矢印といえば、やはりウルフルズのびよんびよんに他ならないのであった。
 たちまち木下の相好が崩れた。
 一拍おいたのち、期せずして私達は唱和していた。「しせいど~、ジェレイドっ」
 「おまえも好きなのか」張り詰めた「おまえもか」緊張は「いいよな、あれ」一挙に「うん。いい、いい」氷解して「欲しいよな、あれ」いくので「欲しい欲しい」あった。
 資生堂のジェレイドなる整髪料には興味がない。そのCMに登場するウルフルズの面々がその頭にくっつけている「びよんびよんしている赤い矢印」こそが、木下と私を魅了してやまないのであった。
「あれは、売り物ではないのか」
「非売品ではないか」
「しかし、カネを積めば売ってくれるのではないか」
「いかにも。カネで買えないものはない」
「もっともである。買えないものがあるとすれば、カネの出し方が足りないのだ」
「幸いなことに、我々は大金持である」
「うむ。それでは買いに行こうではないか」
 酔っぱらいはかくあるべしという理想を具現化していく私達であった。
 まだ午後七時であった。私達は、とある化粧品店のディスプレイにびよんびよんを発見した。
「あったあった」
「これだよこれ」
 私達は、びよんびよんを指さしながらげらげら笑った。酩酊的多幸症の一典型と称される症状である。
「ジェレイドをお求めでしょうか?」
 職業意識に貫かれた微笑を貼り付けて、お店のおねーさんが出てきた。
「あの~、これ欲しいんですけど」
「は? どのようなお品をお求めでしょうか。デザインワックスでしょうか、スカルプフレッシュナーでしょうか」
 なんだそれは。それは我が身につけても問題のない代物であろうか。
「いや、そうじゃなくてね。この矢印ね、これが欲しいの」
「はあ?」
 おねーさんの目が点になった。
「売り物じゃないのは知ってるんだけど、いくら出せば売ってくれるかな」
「は~あ?」
 おねーさんは逃げ腰となった。ちらりと背後に救いを求めるような視線を投げた。
 い、いかんっ。
 木下が目くばせを送ってきた。私はうなずいた。わかっている。逃げ時だ。まずい展開だ。撤退だ。退くしかない。深夜の歌舞伎町あたりでからまれた頃の感覚が、一気に甦ってきた。木下と私は、とにかく逃げ足が早かった。
「あ、いやいや、気にしないでよ。酔っぱらいのタワゴトなのよ。あは。あは、はは、は」
 私達は後ずさりした。おねーさんも後ずさりしていく。
 その距離の見極めが肝心だ。木下と私は、同時にきびすを返した。そして同時に駈けだした。
「ここまで逃げれば大丈夫だな」
 息を切らしながら、私達はまた別の居酒屋に逃げ込んだ。
「どうすれば入手できるかな」
「こうなると、いよいよ欲しくてたまらんな。びよんびよん」
「ちゃんと作戦を練ろうじゃないか。とりあえず、酒がいるな」
 木下は手をあげた。「おばちゃんおばちゃん、田酒二本ね」
 私は続けた。「あと、なめこおろしちょうだい」
「また食うのか」
「すまんすまん」

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