136 97.09.16 「うじゃ~」
敬老の日であった。あまたの経験や知恵やその他様々を有する先達に感謝せねばならない。
しかるになぜ、私は幼稚園児のお守りをせねばならんのか。
お守りが必要なコドモは私に他ならないのだが、コドモに子供のお守りをせいというのであろうか。
これまでずっとそうであったように、災厄は足音もたてずに私の背後に忍び寄っていたというわけである。これまでずっとそうであったように、私はその気配に気づかなかった。我が身を正に襲わんとしている災厄の気配に、きわめて鈍感だ。気づいたときには落とし穴にすっぽりはまって、じたばたともがいている。そんなことでいいのかっ、と叱咤激励されても、私はそんなやつなのだ。しょうがない。
「たまには遊びに来いよ」
と、誘われたので、私は出掛けて行った。それだけだ。私にはなんの落ち度もない。その友人が急な仕事で突然の出勤を余儀なくされ、その妻が遠縁の不幸によっていきなり実家に帰還せねばならなくなるとは、思いもしなかった。
「悪いけど、頼むよ。夕方には帰るから」
「ごめんなさいね。夕方には戻りますから」
不意にいなくなってしまったこの夫婦がなした一粒種とともに、私は半日を過ごさねばならなくなった。意表をつく展開である。私は混乱した。こんなときのための取扱説明書の用意はないのか。ないのだ。私はなんの事前情報もなく、初対面の幼稚園児と時を過ごさねばならなくなったのだ。
仮にこやつをヒデユキとしておくが、いや本当にヒデユキなのだが、これがまたとんでもない輩であった。幼児の多くはとんでもないが。
「うじゃ~」
それが口癖のようであった。なにを意味する言葉なのかは不明である。
「ヒデユキよ、うじゃ~ってなんだ?」
「それはね~、うじゃ~、だよぉ」
さっぱり要領を得ない。
ま、よろしい。私にまとわりついてこなければ、なおよろしい。しかし現実にはヒデユキという人物は、過剰なスキンシップを求めてくるのである。両親に十分な情愛を与えられていないのかもしれぬ。が、それにしては異様に人なつこい。
ととととと、と突っ走ってきてはやたらとしがみつく。仕方がないので相手になった。抱えあげて振り回すなどといったありがちな対応をしてみると、「うじゃ~うじゃ~」と予想通り大喜びしたので、適当にあしらいつつ彼の肉体を弄んだ。
狙いはただひとつ。疲れさせて眠らせるというセンである。こちらはあまり身体を動かしてはならない。約一時間が世間の相場だと聞く。一時間あればテキは眠ってしまうからそれまでの辛抱だ、という。
とんでもなかった。たっぷり二時間だ。私はもうくたくたである。なんだなんだ、話が違うじゃねえか、私に吹き込んだ既婚者諸君よ。
しかも、眠らないのである。運動のあとには、二時間にわたる「なぜどうして」攻撃というものが待っていたのだ。絵本の類を持ち出され、質問責めにあうこととなった。
「どうして、いぬは6ぽんあしじゃないの?」
知らんがな。しかし、懇切丁寧に説明してしまう私なのであった。例によって、口から出任せのでたらめだ。
「そこのテーブルだって4本足だろう。それに、あとの2本は俺が食べちゃったんだ」
「うじゃ~」
ウケたので、嬉しい。って、情けないなオレ。
ふと気づくと私が一方的に喋っている。乗せられたのか。ヒデユキは「うじゃ~」とはしゃぐだけなのである。いかんのではないか。
「ヒデユキよ。君も何か面白いことを言ってみたまえ」
「え? わかんない」
「クレヨンしんちゃんは面白いことを言うではないか。君も幼稚園児としての生をまっとうするつもりならば、気のきいたセリフのひとつも弄してみたまえ」
「うじゃ~」
私にしがみついてきた。すべてをうやむやにしようという姑息な手段と言えよう。で、また運動会だ。今度は一時間。なぜ一時間で済んだかといえば、私が気を失うように眠ってしまったからだ。運動会の後半には私はほとんど殺意を覚えていたのだから、危ないところだった。
眠ったのは束の間らしい。目覚めると、ヒデユキは隣で眠っている。
あ、なんだこのやろ、無邪気な寝顔でオレに対抗するつもりか。まいったな。この世のすべてのことに身構える必要をこれっぽっちも感じていない無邪気な寝顔だ。く、くそう。それはずるいのではないか。ずるいと思う。私もコドモだが、それだけは真似できない。私は悪夢に苦悶する寝顔しか、世間様にお見せできない。
私はすべてを諦め、ヒデユキを抱えて運び、居間のソファに寝かせた。家捜ししてタオルケットを見つけ出し、彼に掛けた。
それにつけても、相手が眠れば自分も眠る奴だったのであろうか。そうだとすれば徒労に他ならぬ。
疲れ果てた私は、冷蔵庫から勝手にビールを持ち出して呑み始めた。
ヒデユキの両親が帰還した頃には酔っ払っていた。ヒデユキは既に夢から覚めている。
「あ~。びーるのんだ~。よっぱらってるぅ」
無邪気に叫ぶんじゃないっての。おめえのせいなんだよ、ヒデユキ。
「あらあら。こんなに飲んじゃったんですか」
そんなにとげとげしい口調にならなくたっていいだろう、その母よ。
「おまえ、人のうちに来てなにやってんだよ」
なにっておまえさあ、事情も聞かずにそれはないだろう、その父よ。
こうして私は、またしても評判を下げていくのであった。
で、「うじゃ~」って、なに?
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