127 97.08.16 「真夜中の攻防」
常温のバーボンを生のままで飲って喉で味わえるほど、悲しいかな、まだそこまでは成長しきれない。コドモなので、ロックがせいぜいだ。いくらなんでもバーボンを水で割るような暴挙は犯さないが、せめて氷は必要だ。
この場合、水道水を温度調節によって固体化せしめたものは断じて氷とは呼べないので、貯えがなくなったら買いに行くしかない。
私は、ロックアイスを求めて近所のコンビニエンスストアに足を向けた。
午後十時だ。
なにゆえに、ここにいるのか勘太郎。
勘太郎という人物は、私の甥として一部には知られているが、実際のところは一介の小学六年生に過ぎず、しかも泣き虫である。世間一般の小学六年生に比して、その成長度はたいへん遅い。ウチの家系は大器晩成型なのであろう。ゑゑと、だからさ、その型なんだってば。
勘太郎は、マガジンラックの前で仲間の何人かと共に車座になって、ある種の雑誌を観ていた。ある種とは、あの類の書物に他ならない。ピンとこない女性諸氏は手近な男性に問い合わせられたい。手近な男性がいない場合は、私が個別にお答えもしよう。
私は、上から彼等を覗き込んだ。みんな熱心に、グラビアの女性の脚部の分岐点における黒色部分を凝視している。
もうちょっと薄い方が好みだなと考えながら、私は教育的指導を施した。
「君達は、通路というものの効用について、いかに認識しておるのか」
みんな、ぎょっとして私を振り仰いだ。全員、顔馴染みだ。
「立って読まなきゃだめだよ。そうやってみんなで座り込んでたら他のお客さんが通れないだろ」
みんな、凍りついた。うわ、やばいところを見つかっちゃったっ、といった雰囲気が彼等の間に漂った。
そうではない。その雑誌のことはどうでもいい。君達が他のお客さんの歩行を妨げている事実を、私は咎めておるのだ。と、説明し、私は彼等の起立を促した。
「はい、立って立って」
すぐには立てない事情もあろうかとも思うが、それは個人的事情であって、公衆道徳の方が重要だ。
彼等は不承不承立ち上がった。みんな腰が引けている。申し訳ないが、仕方がない。私に発見されたのが運の尽きだ。
理不尽な権力を行使したお詫びに、全員にアイスを奢った。近頃は変なアイスがいっぱいあるものだ。
みんなが帰ったので初期の目的であった買物をするべく店内に舞い戻ると、勘太郎がまとわりついてくる。
「なんだよ、帰らないのか」
「きょう、泊めてよ」
「ゲイム、やりたいのか」
「うんっ」
雑誌のことはすっかり忘れて、プレイステーションを興じる期待に瞳を輝かせている。やれやれ。ゲイムのほうが面白いのか。情けないなあ。
私の返事も聞かずに、勘太郎はぴゅうっと公衆電話に走り、保護者より外泊の許可をとりつけてきた。素早すぎる。勘太郎の保護者は、私が了解していないものをいかなる権限によって許可するのか。私の人権は蔑ろにされた。許せぬ。許せぬぞ。わなわな。と、握り締めた拳を震わせていると、勘太郎にその手を引っ張られた。
「コーラ買ってよ、コーラ」
「はいはい、コーラね」
「ほたてっぷりも」
「ほたてっぷり?」
「知らないの?」
「知ってるけどさあ」
参ったなあ。
部屋に舞い戻ると、勘太郎は早速プレイステーションを設置し始めた。
「待て待て、ゲイムの前に着替えろ。おまえ、コントローラー持ったまま寝るからな」
勘太郎にパジャマを放り投げた。子供用のパジャマを常備してある独身家庭はいかがなものかと思うが、実際にあるのだから仕方がない。先日、勘太郎の保護者が無理やり押しつけていったものだ。あまりに頻繁に勘太郎がウチに泊まるものだから、彼女としても我が子の健康についてなにかしらの対応を迫られたらしい。しかし、外泊を控えるように指導すべきではないか。なぜ、パジャマか。洗濯物を干すときに私の胸を横切るえもいわれぬ非現実感がわかるか、その親子よ。
そのうちに私は、勘太郎のパンツも干すことになるのであろう。
パジャマに着替えた勘太郎は、なにやら謎めいたRPGを始めた。
私は、池波正太郎を片手にフォアローゼス。
しばらくして、私はテレビ受像機を使用したい事情を思い起こした。ただいま勘太郎が使用しているものだが、その所有権は私に帰属している。優先的使用権もまた、私のものであろう。私は自分の考え方に落ち度はないか何度も胸の内で確認し、胸を張って申し述べた。
「あのさあ、勘太郎」
「なあに」
勘太郎は振り返りもしない。
「オレ、テレビ観たいんだけど」
「だめ」
一刀両断だ。
なぜ、だめなのであろうか。オレのテレビだよな。
いかにも、私の所有物である。私が購入したテレビに他ならない。ある夏のボーナス支給日にコジマ電機のレジで財布を広げたことが、昨日のことのように思い出される。誰がなんと言おうと、私のテレビである。
「オレ、サッカーの結果、見たいんだけど」
「明日の新聞で見れば」
勘太郎は、冷たい。
ひょっとして私のテレビではないのかもしれない。勘太郎のものなのかもしれない。私はかつて泥酔した折に勘太郎との間で無償譲渡契約を締結したのではないか。私が忘れているだけで、これは勘太郎のテレビなのではないか。そうでなければ、勘太郎の威丈高な態度が説明できない。
私は打ちひしがれ、バーボンを煽った。自棄酒だ。
グラスを重ねているうちに、釈然としない思いが胸の内にふつふつとこみあげてきた。やはりおかしいのではないか。世の中まちがっとる。私としても一矢報いてしかるべきではないか。復讐だ復讐だ。
私は、勘太郎の背中に声をかけた。
「あのさ、勘太郎」
勘太郎は身体を揺らしながら、モンスターと格闘している。当然、返事はない。
「勘太郎さあ」
「ちょっと黙っててよ、こいつ倒せばこのダンジョン、クリアできるんだから」
苛立ちを色濃く滲ませたお返事だ。
ほほう、山場か。山場なのか。しめしめ。
「さっきの本だけどさ」
勘太郎の背中が、一瞬凍りついた。うひゃうひゃ。
「きれいだったな、あの女のひと」
激しい動揺が勘太郎を襲った。めろめろになった。
勘太郎は、たちまちモンスターに敗北した。
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