124 97.08.07 「レッドシグナル・カモン」

 FM放送が懐かしい曲を流し始めた。
 お。このイントロはっ。私は狂喜した。いやあ、最近妙に聞きたかったんだよなあ、この曲。私の無意識の祈りが天国に通じたのだろうか。まさかFMでかかるとはなあ。生きているといいことがあるもんだ。しあわせ。
 ステアリングを握りながら、私は唱和した。
 だが、しあわせは赤信号とともに終わってしまった。しょぼん。黄信号だったから突破できないことはなかったのだが、対面の角にお巡りさんが立っていたのだ。お巡りさんといえば、いろいろと理不尽なチカラを駆使することで知られている。ここはひとつ、大人しくしておいたほうがいいだろう。私も叩けば埃の出る体だ。私はブレーキを踏み、停止線の前に車を停めた。
 その瞬間、困ったことが勃発した。ラジオの感度が低下したのだ。いきなり聞こえなくなった。いや、感度が低下したわけじゃない。この地点における電界強度が局所的に低くなっているのだ。直進性の強い電波は周囲のビル等の加減でうまく受信できないことがある。
 対処法はわかっている。ほんの一メートルも動けばいい。すこし移動しただけで劇的に回復するものだ。この現象は渋滞中によく体験する。
 動けばいい。動けばいいのだ。
 お巡りさんがいなければ即座に実行するところだ。が、お巡りさんは、いる。今そこにいるお巡りさん。問題は彼だ。
 信号待ちで停車している車が不意に動いたら、彼の職業意識はいかなる反応を示すだろうか。危険な冒険だ。私はためらった。名曲はノイズに埋もれたままだ。早くしなければ終わってしまう。
 私は苛立ちを覚えながら、お巡りさんの挙動に目を凝らした。彼の視線が逸れた隙を突こうという姑息な作戦だ。小心者の私としては、精一杯の積極策だ。
 さあ、あっちを向け。向くのだ。向いてよダーリン。こっちの方にはたいして面白いことないからさ。ほらほら、あっちの方からきれいなおねえさんが歩いてくるよ。
 あっ、あっち向いたっ。
 だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ。
 ささささっ。私はゴキブリの如く素早く車を前進させた。
 あっ、こっち向いたっ。
 私は慌ててブレーキを踏み締めた。数十センチほど動いただろうか。だが、ラジオが復活することはなかった。しかも悪いことに、お巡りさんの注目を浴びてしまったようだ。不信感を招いてしまったか。これまでと態度が違う。もはやよそ見はしてくれない。
 こうなったら、もう駄目だ。再度の挑戦は閉ざされ、私は全てを諦めた。
 赤信号で停車する。この社会を生きる一員として当然のことだ。赤信号が遮断する。私に許されたしあわせはその程度のものだ。赤信号を突破する。そんなことができるなら今ここにはいない。
 私は天国を夢見た。酒は旨いし、ねえちゃんは綺麗だという。
 悠久の時が流れ、信号が変わった。私は急発進した。ラジオはすぐに甦った。
 「帰って来たヨッパライ」は、もう生き返ったあとだった。

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