098 97.05.06 「谺」
たとえばここに、勃然と雪合戦をやりたくなった男がいたとしよう。
心の奥深いところから雪合戦衝動が熱く噴き上げ、矢も盾もたまらない。掌に雪を丸め、それを相手に投げつけたい。ぶつけたい。男は思い詰める。
男は都内の一部上場企業に勤める会社員だ。妻子と住宅ローンを抱えている。
山間部にはまだ残雪があるだろう。連休が明けた朝、満員電車に揺られながら、男は遠い空に思いを馳せる。自分はこんなところで何をやっているのだろう。
一面の真っ白な大地をぎゅっぎゅっと踏み締め、おもむろに両の掌にむんずと雪をつかみとり、雪玉をつくる。男は空想する。雪玉の大きさは重要だ。大きからず小さからず。できる限り固く握る。投げるときのフォームはコンパクトに。足場が悪い。ノーワインドアップだ。ランナーを背負っているつもりで投げるんだ。
低めだ。玉は低めに集めろ。腰より下だ。敵の動きから目を離すな。先を読め。敵の重心が動きかけた瞬間に、その一歩先へ投げるんだ。
ふと我に帰ると、男は降りるべき駅を乗り越していた。
男はしばらく放心していたが、やがて決意した。ほんの少し前までは思いも寄らなかった決意だ。
新宿駅から会社へ電話をかけた。嫌味を浴びながら、唐突な体調不良による欠勤を得る。電話を切り、男は吐息をつく。今、なにかを失ったが、あとでべつななにかを得るだろう。
連休明けの中央本線は空いている。自由席に座った男はすぐさま眠りに落ちた。
目覚めたときには窓の外には新緑の山並が広がっていた。自分がどこにいるかはわからないが、男はあまり気にしない。稜線のあたりに目を凝らす。ある。雪はまだ残っている。
適当な駅で降りる。駅前の鄙びた靴屋で長靴を買い、タクシーを拾う。
雪があるところ? そう、雪があるところ。雪って、雪のことかい? そう、雪のことだ。遠いよ、途中までしか行けないし、その先はしばらく歩くことになるよ。かまわない、雪を見に来ただけなんだ。
男はそっとつぶやいた。雪合戦をしに来ただけなんだ。
タクシーを見送り、小一時間ほど山道を登った。
このあたりでいいだろう。日照の悪い山あいに、充分な残雪があった。男は長靴に履き替え、上着を傍らの木の枝にかけた。相手はいないが、仕方がない。男は、雪をすくいとった。
今朝からずっと考えていた通りのやり方で雪玉をつくった。手頃な距離にある樹の幹を目がけて投げる。何度も投げた。ほどなくして、かなりの確率で思い通りの場所に当てられるようになった。
男は汗を拭った。
視野の片隅で動くものがあった。兎がいた。当てられるか。男は柔らかめの雪玉をつくった。兎は立ち上がり、きょとんとして男を見つめている。
男は振りかぶった。
まさか命中するとは思いもしなかった。兎は顔をぶるるっと振るい、身をひるがえして木立の中に消えた。
いきなり、男の腹の底から笑いが突き上げた。
山あいに、男の哄笑が谺した。
やがて男は満足し、涙を流した。帰らなければならないところがある。男は空を振り仰いだ。蒼い。帰らなければならない。
男は山道を下っていった。
肩が、微かに痛い。
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