099 97.05.07 「反社会的な窓」

 ひとは、様々な秘密を抱えて街を歩いている。
 億単位の使い込み発覚を恐れているひとがいれば、不倫相手の配偶者を殺すためのナイフを懐に忍ばせているひともいる。
 ここに、誰にも言えない秘事を心の奥に潜ませて、びくびくしながら歩いている男がいた。彼は、というのはつまり私に他ならないが、怯えていた。もしもこのことがバレたらどうしよう、おろおろ。彼は、たいへん気が弱い。気を病み、気を揉み、気後れし、気疲れしている。
 彼と擦れ違う人々は思いもしないだろう。彼が誰にも知られたくはない秘密に思い悩み、思い煩い、思い過ごし、思い詰めていることを。
 だが実際には、彼はパンツをうしろまえにはいているのである。後ろ前だ。後ろが、前だ。前後が逆なのだ。
 痛恨事だ。大失態だ。自殺点だ。液状排泄物を放出する奇妙な突起物を露出するための開口部が、こともあろうに臀部側に存在している。なんの役にも立たない。なんのための穴か。穴として、それで許されるか。
 つい先ほど、小用を足そうとして、彼は無念やる方ないこの事態に気づいた。そのときは片脚側から粗末な代物を引っ張り出してなんとか困難な局面を乗り切ったのだが、いかんせんトランクスであり、布地に伸縮性が乏しい。心持ち窮屈な体勢を強いられた。ブリーフだったらなんの問題もないはずだが、そもそもブリーフを後ろ前にはくことはないだろう。
 昨日買ったばかりのパンツである。穿き慣れないパンツは、履き慣れない靴より始末が悪い。
 気づいてしまうと、落ち着かない。臀部を収納するための布のふくらみが前面にあることが、どうにも気になる。反対に、臀部が妙にきついようにも感じる。気づくまではなんとも思っていなかったことが、無性に気にかかってならない。
 彼は心配性である。考えなくてもいいことを考えてしまう。とつぜん身体測定が実施されたらどうなるか。「はあい、みなさん、パンツ一丁になって並んでください」。いやだ、そんな屈辱には耐えられない。彼は絶望に駈られる。誰もが彼のパンツの開口部を指さして笑うだろう。後ろ指をさされるのだ。官憲は眉をひそめるに違いない。社会の窓を閉ざし、裏口へ広く門戸を開いている男がいる、アナキストではないか。「本部本部、応答せよ。17番目に並んでいる男、挙動不審につきマークします」「了解。17番、引き続き警戒せよ、どうぞ」「了解。念のため、公安の応援を頼みます」「了解」。いやだ、それは濡れ衣だ冤罪だ。はたまた、後ろに並んだ男に男色嗜好があったら、どうなるか。誘っているようなものではないか。
 彼の連想は次第に妄想の域に突入する。いま擦れ違った男はやけに目つきが鋭かったが、麻薬捜査官ではないか。目が合ってしまった。反転して尾行されるのではないか。呼び止められ、連行されるのではないか。入念な身体検査をされたらどうすればいいのか。「あ。こいつのパンツはどうなっているのだ。調べろ調べろ。ブツは肛門の中に違いない」。ずぶずぶずぶ。うわあ、やめてくれ。俺は無実だあっ。
 彼の顔は引きつり、自らの妄想に冷や汗をかいている。
 ここにおいてようやく彼は解決策を見出した。こっそり着替えればよいのであった。誰もがすぐに思いつくことなのだが、彼には何事においても紆余曲折があるのだ。
 彼はちょうど通りかかったパチンコ屋のトイレを拝借することにした。個室に入ってズボンとパンツを脱いだ彼は、呆然とした。目の前にパンツを掲げ、何度も前後を見返した。開口部などなかった。金輪際、なかった。そういうパンツだったのだ。
 窓はなかった。社会への興味など一切もたない自閉症のパンツだったのだ。
 後ろ前などではなかった。勘違いであった。すべては気のせいであった。
 彼はのろのろとパンツとズボンを身につけた。トイレを出ると、パチンコ屋の喧騒だ。満員の店内を蟹歩きしながら、彼は「このひとたちは、オレがどれほど間抜けか知らないんだろうなあ」と考えていた。

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