074 96.10.22 「ぎゃふん」
今年の四月に入社してきた香野くんはなかなかスジがいい。シゴト上での関わりはあまりないのだが、私はなるべく会話の機会を持つように努め、ことあるごとに香野くんを薫陶してきたのだ。いやその、自分で薫陶などといってはいかんか。わはは。態度でかいなオレ。
夏の暑い盛りに外回りから帰ってくると香野くんがいたので、汗だくの私は思わず所望した。
「あ~、コウノく~ん、なんか冷たいものをくれ~」
香野くんはシタッパなので、オチャクミを仰せつかっているのだ。
「自分で勝手に飲んでください。冷蔵庫に麦茶が入ってます」
香野くんは、にべもない。
「なんだよ~、けち」
「いや、冷たいものを、ということなので、冷たい言葉を返してみたんですが」
ないす~っ。薫陶の甲斐があったというものだ。先生は嬉しいぞ。
「おう、そうかそうか、そりゃいいぞ。すばらしいリアクションだ」
いそいそと麦茶を汲みながら、誉め讃える私。ショクバにおいてシゴトより重要なものは常に存在する。ウケをとりにいかないで生きている意味があろうか。
私は誉めて育てるタイプである。打たせて取るタイプともいう。ぜんぜん違うが、そんな細かいことを気にしているようでは、迷走する次の世紀を生き抜いていけないぞ。
この、私の秘蔵っ子である香野くんが、最近どうも竹田さんに孤高の挑戦を企ててているようなのであった。竹田さんは夫子あるおちゃらけた女性なのだが、その軽さにおいてショクバでは一目置かれている。侮ってはならない。このひとと張り合って敗れ去った者は、私をはじめとして数知れない。
百戦錬磨の難敵である。まだ早いのではないか。しかも、竹田さんは香野くんの直属上司だ。私は心配しながらも、一方で香野くんの奮闘に期待してもいるようであった。ふと気づくと、柱の陰から二人のやりとりを盗み見て、明子ねえちゃんと化す私がいるのであった。
「ひゅうま……」
などと呟いて、気分を出してみたりするのであった。馬鹿かも。
香野くんは、なぞなぞという古典的手法を用いた。
「地味な方といえば、」
「ジミー・カーター!」竹田さんは素早い。
「ですが~、」
あ。いいのか香野くん。そんな姑息な作戦は竹田さんの思う壷だぞ。
「地味な人といえば、いったい誰でしょう?」
今度も、竹田さんは即答した。「ジミー・ヒートン!」
香野くんは、たちまち顔色を失った。ほら見ろ、言わんこっちゃない。
「で、香野くん、それがどうかしたの?」
「い、いや、なんでもないっす。他意はないっす……」
「タイはナイス? そ~そ~、そ~なのよう。よかったわよ、タイ。君もいちど行ってみるといいわよう」
「い、い、いや、それは、ちょっと。海外には行くなという家訓があるので」
香野くんは最後の反撃を試みた。が、反撃など、竹田さんに通じるわけがないのだ。
「家訓?」竹田さんは、言った。「かっくん」
香野くん、大敗であった。
「あんな手口じゃ竹田さんに勝てるわけねえだろ~」
よろよろと戻ってきた香野くんを、私は諭した。
「イケルと思ったんですけど」
香野くんはクチビルを噛みしめる。
「で、ジミー・ヒートンって何者?」
「そんな奴、いませんよ。架空の人物です。竹田さんもオレと同じ発想をしたんですよっ」
「ゑ?」
ううむ。香野くんも高度なテクニックを使えるようになったものだ。居もしない人物を解答にして、それを押し通そうとは。暴挙すれすれの高等戦術だ。
しかし、竹田さんはその上を行くのであった。
「おそるべし、竹田弘子!」
我々は天を見上げ、嘆息するのであった。
その後も、香野くんはことあるごとに竹田さんにタタカイを挑み、その度に軽くあしらわれていたようであった。二人と私は業務がかち合うことがないので、詳細は知らない。時折、香野くんから敗北の弁を聞くのみであった。
いつの日か、竹田さんをぎゃふんと言わせて見せますよ。香野くんは、拳を握り締めて、そう誓うのであった。
ぎゃふん、なあ。その言葉、どこから発掘してきたんだろう。
私は、前途有望な青年の人生を誤らせてしまったのかもしれない。反省はしないのだが。
本日、竹田香野両名は渋谷方面へ出かけていったらしい。聞けば、「行楽のお供に」と、竹田さんが香野くんを指名したようであった。ああ、またもや竹田さんの術中にはまるのか、香野くんよ。
夕刻、帰社した両名の姿を見て、竹田さんが香野くんを指名した訳が明らかとなった。香野くんは、竹田さんのうしろでひ~こら言いながら、重そうなダンボール箱を抱えている。つまるところ、荷物持ちなのであった。
「参りましたよ~」
こっそり報告に来た香野くんによると、またまた敗北を喫したらしい。その概要を聞いて、私は涙した。
出先で両名の間にタイムラグが生じ、渋谷駅で待ち合わせをすることになった。イナカモノのフォーマットに則って、ハチ公前。先に現れたのは香野くんで、手持ち無沙汰にハチ公を眺めていた。律儀なハチ公の姿になにか胸を打たれるものがあったのか、そのうちに香野くんは歌いだした。ばんばひろふみ「Sachiko」の替え歌。
「ハチ公~、思いどおりに、ハチ公~、生きてごらん~」
意外に大きな声で歌ってしまったらしく、周囲の方々にはウケたらしい。香野くんは気を良くして、なおも作詞家生活に突入しようとした。
しかし、現れたのだ。いつのまにか登場した竹田さんは、群衆の耳目を香野くんからかっさらってしまったのだ。
「ハっちゃんはね、ハチ公っていうんだ、ほんとはね、だけど犬だから、自分のことハっちゃんって呼ぶんだよ、おかしいね、ハっちゃん」
竹田さんの方がウケたらしい。替え歌の出来は香野くんの方が、数段、上だ。しかし、笑いを取るということはネタの出来に依存しないことを香野くんは知るべきであった。きっと、竹田さんは香野くんより大きな声で歌ったであろう。なんのてらいもなく歌ったであろう。竹田さんはそれができるひとだ。笑いとは、その場の雰囲気を的確に捉えて即応できる者の身に与えられる栄冠だ。香野くんは、そもそも、そのへんの呼吸を、まだ心得ていなかった。
「悔しいっすよ、オレ」
香野くんは、述懐するのであった。
私としても、慰めるすべもない。そういった呼吸を察知する能力において、私は竹田さんには敵わない。
「まだまだ修行が足りないな、オレたち」
「まだ、駄目ですかね」
「ああ。まだ、駄目だ」
私と香野くんは、お互いを慰め合うのであった。
「これ、食べない~?」
屈辱にまみれた我々のもとに、竹田さんがやってきた。
「さっき、取引先のひとにもらってきたの。そお、あれよ。ピータン。卵よ、卵。鳥の赤ちゃんよ~」
赤ちゃんとは、これまた突飛な言い草だ、と、思っていたら、それはギャグの伏線であった。
「これはね、香野くんが運んできてくれたものなのよ」
あ。もらえるものがわかっていて、わざわざ香野くんを連れていきやがったな。ストーリイを書いてから出かけたに違いない。私は、呆れた。そこまでして、ギャグを言いたいか竹田。
負けた、と、思った。香野くんの顔色を見やると、彼の心中も同様であるようだった。
私は、内心でそっと呟いた。
ぎゃふん。
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