066 96.09.23 「運動会の達人」

 好天に誘われて運動会に出掛けた。近所の小学校だ。べつに子供がいるわけではないが、昨今の運動会事情はどのようになっているのか、ふと興味が湧いたのであった。昼頃に起床して、窓を開けると、運動会自体が発する以外のなにものでもない音が聞こえてきた。朝方に花火が鳴っていたが、そういう展開であったか。
 てくてくと歩いていく。歩いていくほうが運動会には似つかわしい。途中のコンビニで缶ビールと柿の種を購入。校庭に足を踏み入れると、まごうかたなき運動会の開催中。
 さて、どこに陣地を定めようか。ジャングルジムや滑り台といった一等地は既に占拠されている。はてさて。ふつうは「ウチの子」というものを見に来るのだろうが、私には特に目的の人物がいるわけではない。子供ではなく、運動会を見物に来たのだ。そう考えると、全体が見渡せる場所がいい。校庭の隅っこにベンチがあって、誰も座っていない。あそこにしよう。競技の展開はほんの少ししか見えないが、まあいい。腰掛けて、とりあえず缶ビールを開ける。
 伸びをして、校庭を眺め渡す。いやあ、こういう雰囲気は久し振りだなあ。
「ここ、空いてますか?」
 ひとりのお父さんが現れた。
 ん。このベンチのことかな。「空いてますよ」
「それじゃ、失礼」
 お父さんは、どっこいしょと呟きながら私の隣に腰をおろした。
「いやあ、運動会も楽じゃないですなあ」
「はあ」
「毎年毎年、同じ事をねえ。今年で15年連続で来てるんですわ。ま、皆勤賞ですな。うちのは下の奴が今年やっと6年生でね、今日でようやく終わりですよ」
 親の立場で運動会に参加し続けて15年。もはやベテランの風格を漂わせるお父さんなのであった。
「お宅のお子さんは、何年生ですか?」
 ゑ? お子さん? いや、それは、その。
「1年生なんです。今年が初めてで」
 もう、嘘ばっかり。
「ほほう。じゃあ、これからが大変ですなあ」
「はあ? 大変ですか?」
「大変ですよ、そりゃもう」
 お父さんの視線が私の缶ビールに注がれる。あ、こりゃ気がつきませんで。ごそごそ。どうぞ。あ、いいんですかすみませんね。いえいえ、御遠慮なく。大人の会話。
「しかしあなた、初めてだというのにこんな隅っこの方で悠然と構えているあたり、なかなか通ですな」
「は。通、ですか」
 なにかどうも、お父さんは長年の体験を通じて運動会における父兄のあり方というようなものを会得するに至ったようだ。
「そうですとも。皆さん、ビデオカメラなんか回してますけどね」
 お父さんの蘊蓄はまず映像の記録といった方面に向けられた。見回すと、なるほどビデオカメラの撮影会としか思えない。
「あんなことしちゃいけません。無駄です。あんなもの誰も見やしません。素人のアングルはめちゃくちゃで、鑑賞できたもんじゃありません。かといって、テープを捨てるわけにもいかない。子供に怒られちゃう。一度見たきりであとはぜんぜん見ないくせにね。はなっから、ビデオなんか撮らないほうがいいんです」
 あのう、お父さん、あなたの撮影が下手なだけなんでは?
「普通のカメラはどうでしょう?」
 カメラを持っている人もちらほらといる。ビデオ派に比べると肩身が狭そうだが。
「いや、いけませんな。子供に怒られちゃうんですよ。カメラはかっこわるいってね。友達に馬鹿にされるからビデオにしてくれと言うんですな。ビデオが嫌ならいっそのこと手ぶらでいてくれ、と」
「はあ。そんなもんですかねえ」
「まあ、高学年になると生意気でね。あなたのところのように低学年のうちはまだ大丈夫ですよ」
 大丈夫、ですか。そりゃよかった。よくねえか、べつに。
「いやあ、実は私、手ぶらでして」
 私は正直に告白した。なにが正直なんだかよくわからんが。
「それは偉いですな。わかってらっしゃる」
 誉められてしまった。なんだか嬉しい。調子に乗って、教えを乞うてしまう。
「あのう、父兄が参加する競技がありますが、あれはどうでしょう。参加したほうがいいでしょうか?」
 お父さんはぐいっとビールを呑み干して腕組みした。すかさず、追加のビールを差し出す私。
「あ、こりゃすみませんな」ぷし。ぐびり。「そうですなあ、それは難しい問題ですな。体力に自信があればいいでしょう。しかし、負けると子供の親に対する評価は、必ず低下します。できる限り避けるという消極的な対応しかありませんな。不参加の場合は子供が納得できる理由を用意しなきゃなりません。二、三日前から足に包帯を巻いたりむやみに咳をして風邪をひいたふりをしたり、いろいろやりましたよ。女房の説得工作も重要ですな。女房からも吹き込んでおいてもらうわけです。お父さんは怪我してるんだから無理なお願いをしちゃ駄目よ、とかなんとか」
「なんだか、大変ですねえ」
「大変ですよ。子供の運動会を甘く見ちゃ痛い目に遇いますよ。連中も予行演習で大変でしょうが、親も事前に準備しなきゃなりません。毎年不参加だとこれまた子供の不審を招くので、まあ隔年で参加するわけですな。参加する年は半月くらい前から、にわか体力作りです。ジョギングしたりしてね」
「半月で効果ありますか?」
「ありますあります。100のうち10だった体力がすぐに50になります。50から90には絶対になりませんが。ま、人並には戻るわけですな。というよりも、実は、ジョギングしている姿を子供に見せるというのが重要なんです。自分の運動会のためにお父さんは準備しているんだ、と思わせる。これですな。成績が悪くても納得してもらえる」
 深い。なんだかとてつもなく深い思索があるのであった。眩暈がした。
 その後も、この運動会の達人というべき偉大なお父さんからは、いろいろと為になる話を聞くことができた。やはり、体験に裏打ちされた叡知は素晴らしい。漫然と眺めているだけではけして得られなかった知識をものにすることができた。収穫の多い一日であったというべきであろう。
 役立たせる機会はないのだが。
「いやあ、きょうは、長年蓄積してきた経験を有望な後継者に伝えることができた気がしますよ」
 別れ際に、お父さんは満足げに語るのであった。
「来年からは頑張ってください」
 って、言われても。

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