064 96.09.23 「洗濯を誤る」
ふと、いつもと同じ日常の繰り返しに疑問を抱く。そういう瞬間があるといいます。ある日とつぜん俺の人生はなんだったのか、などと思うんだそうです。なんだかよくわかりません。俺はこのままでいいのか、などと自問するそうです。どうもよくわかりません。でした。
今日までは。
聞いてください。私もついに、自分のジンセイに疑問を持ちました。とうとう、やりました。感無量です。
それはおめでとう。どうもありがとう。とりあえず二重人格者になって、自分を誉め讃えてみました。
疑問は、私がサンヨー全自動洗濯機ASW-240Sのスイッチを投入した瞬間に、雷光のように私を貫きました。
いかん。このまま毎日おなじ方法で洗濯をしていたのでは俺は駄目になってしまう。もっと他になにか素晴らしい洗濯のやり方があるはずだっ。スピーディコースとかウールコースなどという小手先の変化ではない、これまでの生き方をすべて否定し尽くし新天地を切り拓く究極の洗濯があるはずだっ。
そのように思ったわけです。
でも、どうすればいいのかわかりません。
疑問があるときゃ辞書を引け。とは、恩師神部先生の口癖です。私はこれまで辞書を引くことで数々の疑問を解消してきました。若いという字は苦しい字に似てることも辞書から学んだし、水素もつくりました。神部先生のお蔭です。
とりあえず、洗濯という行為の意味を調べてみました。取り出したるは、お約束の三省堂「新明解国語辞典」。この辞書じゃないとちょっと恥しいという時代になってしまったので、私も先ごろ購入しました。「よごれた衣服などを洗ってきれいにすること。洗いすすぐこと」。おっと、これは新明解とも思えない無難な解釈。そんなことは知ってるよう。
用例の「命の洗濯」、これはヒントになるかな。「日ごろの仕事から解放され・雄大な自然(すぐれた芸術品)などに接して、崇高な気持になったり・新しい(明日の)仕事に対する意欲を感じたりすること」。はあ、そうですか。「命」の項にも「命の洗濯」が出てました。「気晴らしをして、日ごろの苦労・うっぷんを慰めること」。ずいぶん違うなあ。どっちが正しいんだろう。なんにせよ、命を洗濯すると日頃の苦労が解消されるみたいですね、どうも。
そうすると、衣服にとっての仕事や苦労はなんでしょう。ひとに着られることでしょうか。きれいになると気持ちがいいのでしょうか。衣服は。私は衣服ではないのでサダカではありませんが、洗濯機でごろごろと揉まれた挙句に吊るされてしまうのは苦行ではないのでしょうか。一方で、脱ぎ捨てられてから洗濯機を経てタンスにしまわれるまでの間は、衣服ではなく洗濯物であるという見解もあり、事態は混迷の度を深めていきます。所詮は一介の洗濯者に過ぎない私としては、洗濯物の気持はわかりません。
更には、ひとに着られない衣服こそ苦労の毎日を送っているという主張、いやそもそも買われない衣服こそ苦労の連続といった意見なども噴出し、私は混乱の泥沼でのたうちまわるはめになるのでした。
衣服の立場から洗濯を考えるのは難しいようです。原点にかえって、現在私が定期的に行っている洗濯のいったいどこに問題が潜んでいるのかを考えてみましょう。実は問題は明らかで、「いつも同じ作業」という点にこそ病根があるわけです。
洗濯機に洗濯物をぶちこむ。スイッチを押す。スイッチを切る。干す。
こうした単調な作業の繰り返しに、本日、私はふと疑問を抱くに至ったのです。「オリーブの首飾り」を口ずさみながら洗濯物を投げ入れると趣がある。そういう教えを頂き、さっそく試してみたこともありましたが、どうも尻切れトンボの感は否めません。干すときにも口ずさんでみましたが、通りかかった隣家の奥さんがうさんくさそうな目つきを慌ててそらしただけでした。
他にも、乾燥機を買う、いっそ電気洗濯機を使わずに自らの体力のみで洗濯に臨む、などといった方策を思いつきましたが、経済的または体力的事情がそれを許しません。
ついには、洗濯などはせず汚れた衣服はすべて廃棄するという大胆な手法も脳裏を横切りました。これを実行できるほど思い切れたら、ジンセイががらりと変わるような気がします。
思い切れるわけないけど。
やはり私のように苦悩に不自由なひとは、思い悩んじゃいけませんね。さて、せんたくせんたく。
今日の苦悩より、明日のぱんつ。
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