018 96.04.24 「恵まれない私に孫の手を」
ふと背中がかゆくなったので、孫の手を買いに出かけた。孫の手は、神の手、見えざる手と並んで世界三大手と称されている。三大手とは、いかにもかっこわるい語感だが、侮ってはならない。神の手とは、空気銃を持つ以前のディエゴ・マラドーナの手のことであり、見えざる手は見えないところがエライ。この偉大なふたつの手に並び称されるとは、孫の手も孫の手冥利に尽きるというものであろう。いずれ端倪すべからざる実力を備えているとみて間違いあるまい。あ、端倪すべからざるなどという言い回しを生まれて初めて使ってしまいました。使い方、まちがってないかな。どきどき。すべからざるがちょっといかしてるので、前々から使ってみたかったんです。
ことほどさように、孫の手は偉大である。合いの手風情とはちょいとばかり住む世界が違う。ましてや、奥の手などといった姑息なヤカラと比べてはならない。なにしろ、孫の手なのだ。
さて、どこで購入すればよいのか。孫の手は、どこで買ったらいいのかランキングにおいて、日の丸と激しいツバゼリアイをしていると伝え聞く。こういうときはデパートに行って、受付の見目うるわしき女性に尋ねるのがよいとされている。先哲から語り継がれたその処世訓に従ってデパートを訪ね、思ったより見目うるわしくはなかった女性に訊いてみた。たちどころに雑貨売り場とのお答えが返ってきた。きっと一日平均13.3名が同じ問いを発しているのであろう。
意外にあっけなく入手の運びに至った。実は、どこかの観光地に行かねば購入できないのではないかとの危惧もあったのだ。そのへんの店先で見かけることはないが観光地の土産物店では必須の定番商品であるという事実が、孫の手の謎めいた属性だ。そのくせ、徹頭徹尾、実用品ときている。孫の手以上に掻く快感を満たしてくれる道具はない。装飾品でも食品でもないというなんとも不可解な土産物だ。孫の手の需要はどのあたりに立脚しているのであろう。思えば、奇妙な商品ではある。
我が所有物と化したからには早速つかってみたい。たとえば、公衆の面前で買ったばかりの本を紙袋から取り出して読む。これはべつにおかしくはない。衆人環境のなかで買ったばかりのパンツにはきかえる。これはちと問題であろう。孫の手はどうか。わからない。背中がかゆい。そのために掻くための道具を購入した。路上ですぐに使うのは公衆道徳に反するだろうか。孫の手で背中を掻くという行為は、世間の一般常識のなかで、どのように位置付けられているのだろう。しばし黙考したが、わからなかった。私は愕然とした。三十数年生きて、いったいなにをしてきたのだろう。こんな簡単なことがわからない。
困ったことになった。似たような行為を思い浮かべてみよう。雑踏のなかで髪を櫛でとかす、爪切りで爪を切る、あまり見栄えのよいものではなかろうが、とりたてて奇異ではないようにも思える。だったら、孫の手を背中に突っ込んで気持ちよさそうに掻くのもさほど問題はないのではないか。掻きたい気持が、そのような思考を辿りたがる。
しかし、実行はためらわれた。なにが私を押しとどめるのだろう。かゆみは増す。掻けない状況に図らずも陥ったせいか、背中のかゆみは次第に耐え難くなってきた。
我慢できない。上半身が知らず知らずのうちにもぞもぞとむずがってしまう。だんだんものを考えられなくなってきた。頭がぼうっとしてきて、ふと気づいたときには孫の手を背中に突っ込んでいた。欲望の赴くままに掻いていた。き、きもちいい。ふかい溜息がもれた。
ひとごごちつくと、再びセケンテイという概念が私の脳裏に甦ってきた。周囲の視線が心なしかよそよそしい。失笑を買っているような気がしてならない。
あ。やはりいけなかったのか。こういうことは隠れてするべきだったのか。頭に血が上った。ついで、心の中に喪失感が忍び寄ってきた。私は人としてなにか大切なものを失ってしまったのではないか。越えてはならない一線を踏み越えてしまったのではないか。ひとときの悦楽に我を忘れ、畜生の道に堕ちてしまったのではないだろうか。
泣きたくなってきた。自分は穢れてしまった。純真だったさっきまでの自分には戻れないのだ。
でも、しょうがない。やがて、私は開き直った。だって、もう、かゆくないんだもん。
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