016 96.04.19 「買い物かごをぶら下げて」
誰にだって一度や二度、スーパーの買い物かごを持ったまま店外へ出てしまったことはあると思います。レジで会計を済ませたあと、ポリエチレンだかなんだかの袋への積み替え作業を行うのをついうっかり忘れて、外へ出てしまった恥しい体験です。あの無骨なプラスチック製の角形のかごに買ったばかりの商品を満載にして、時には鼻歌などを口ずさみながら、店の外へ出てしまう。私、よくやるんですよ。みんなも、やるよね。お願い、やると言って。
顔から火が出るとか言いますが、ほんとにそういう状態に陥りますね、自分がなにをしているのか気づいた瞬間には。口から火を吐いてる分には時には尊敬されたりしますが、顔から火が出るのはこれはもういけません。この火は目に見えません。メタノール燃焼状態。動揺します。すごくします。ひたすら平静な態度を装ってますが、心の中は恐慌状態です。なんて馬鹿なことをしてしまったんだ俺は、などと自分を責めるゆとりさえありません。ただただ動転するのみです。
それでも、恥をかき続けた半生の蓄積が、このままではいかん店内に戻らなければ、と最後の理性を掘り起こしてくれて、ようやく次の行動指針が決定されるわけです。Uターンするしかありません。
この距離が長い。とても長い。すぐそこまで歩いていくだけなのに、とても遠い。走って取って返すのもみっともない、と、それがどういう価値判断なのか自分でもわからないままに、悠々とした足取りで歩を進めるわけです。いやあ、ついうっかりしちゃったなあ、まいったまいった、でもぜんぜん気にしてないんだもんね。と、いうような演技を知らず知らずしているのです。誰に対してそんな演技をしなければならないのかわからずに俳優と化すのです。そもそもそんな演技をしたところで誰も気づかないではないか、と思い悩んだりもするのですが、そんな懊悩はおくびにも出さず、不必要に悠然とした挙措で、出てきたばかりのスーパーを目指すわけです。急ぎたい、一刻も早くこの苦痛から逃れたい、と思いつつも、あははははいやあ俺ってばかだなでもほんとにこんな失敗のことなんかぜんぜん気にしてないんだよ、という態度をさりげなく振りまきながら、スーパー特製買い物かごをぶら下げて歩くしかないのでした。
駅のホームで鳴り響くベルの中を疾走してきたものの、電車に乗らんとしたまさにその直前でドアが閉まる。あれですよあれ。あの心境です。誰もが不必要なアクションをみせますね。大袈裟に悔しがったり、ぜんぜん気にしてないようなそぶりをしたり。いずれにしても過剰な演技ですね。でもね、あれは必要なアクションなんです。自分の心のバランスを保つための行為なんです。恥しいと感じたときに、ひとは取り繕ってしまうんです。周囲のひとに見て頂きたい行為ではありますが、それはもう純粋に自分だけのためになされるアクションなんです。わかってあげてください。
心中はまだ動揺しています。心臓ばくばくです。いろんなことを考えてしまいます。あ、あのおばちゃん、内心では笑ってるんだろうな。いいんだいいんだ、どうせ俺は粗忽な奴なんだ。あ、あっちのおねえちゃんなんか、露骨に笑ってるじゃないか。俺のことかな。違うよな、あさってのほう向いてるもんな。でも、俺のこと笑ってるのかもしれないな。買い物かごの中身が丸見えだもんな。今夜の献立ばればれだよな。おでん。ああもう、ああもう。あっ。ひょっとして、こ、このコンニャクがいかんのではっ。ち、違うんです。このコンニャクは、食べるんです。おでんにしてですね、食べるんですってば。
大声で弁明したくなる衝動を抑えるのに苦労してしまう。もしかしたら自分が誤解されている、という怯えにさいなまれる。冷静に考えればそんなことはないのに、そして本当に誤解されていたとしてもだからといって別にあわてふためくこともないのに、もはや精神の均衡を欠いているので、考えなくてもいいことばかり考えてしまうんです。しかも、こんなときばかり連想は悪いほうへ悪いほうへと、止めどなく転げ落ちていく。もう、いや。
そうして、このような精神の大冒険を経て、再び店内に入りレジの横で数分前に行うべきだった作業を終え、あらためてスーパーから解放された頃には、心身ともにすっかり疲れ果て、もはや家に帰る気力さえ喪失しているというテイタラクとなっているのです。
しかし、それもこれも昨日までのいい思い出です。私は遂にやってしまいました。いま目の前にスーパー大黒屋とロゴが入ったプラスチック製の買い物かごがあります。ちなみに、私は家にいます。
恐れていた日がやってきました。私は、帰途に自分の過ちに気づくこともなく、とうとう家までの帰還を果たしてしまったのです。その途中で私を目撃した方々の胸に去来したであろう様々な感想については、今はなにも考えたくはありません。
私はいったい、どうしたらいいのでしょう。
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