015 96.04.18 「彼等はオヤジじゃないと思う」

 7日午後11時40分頃、東京都墨田区で男性会社員(30)がオヤジ狩りに遇ってしまったそうなのである。更にその30分後、同区で男性会社員(29)も同様の被害に遇ったそうなのである。新聞がそのように伝えている。
 御二方ともさぞかし悔しかろう。「オレはオヤジじゃないっ」と声を限りに叫びたいに違いない。「オレはただ高校生のグループに強盗されただけだっ。たいした事件じゃないんだっ。いちいち報道するなっ」と、怒っているに違いないのだ。
 それもこれも犯人の高校生諸君が、オヤジ狩りをやったと発言しておるからで、そもそもの問題はここにある。が、警察がこの目新しい単語を記者発表の場に持ち出さなければ御二方の名誉は守られたはずだ。しかし警察にも警察の事情があるらしく、高校生諸君の発言内容を発表するに至った。こうなるともう事態は後戻りできず、報道に携わる皆さんがオヤジ狩りオヤジ狩りと連呼することになる。報道されなかったかもしれないありきたりの強盗事件が、大々的に取り上げられ、ここにおいて、一夜にしてオヤジが2名誕生した。
 30歳と29歳。御二方とも、自分をオヤジだとは認識してはいないだろう。たとえ子供がいたとして、自分が父親だとは自覚してはいても、オヤジだとは考えてはいなかったに違いない。近年、オヤジという言葉には新たな意味が加わっていて、それはオヤジギャグに代表されるようにけして好ましいイメージではない。
 思えば、罪作りな高校生諸君である。強盗はかまわない。かまわないわけはないのだが、ま、かまわない。強盗をオヤジ狩りなどと称したのがいかん。オヤジ狩りをするのなら、ちゃんとオヤジを襲ってもらいたい。高校生諸君から見れば御二方はオヤジかもしれない。しかし本人達にはまた違う認識があるのだ。
 御二方の将来は閉ざされた。オヤジというレッテルを貼られてしまったのだ。これから正真正銘のオヤジとなるまでの少なからぬ時間を、オヤジでもないのにオヤジとして生きていかねばならなくなったのだ。
 御二方とも、傷が癒えれば社会復帰することだろう。会社の皆さんから「いや、とんでもない目に遇ったな」「大変でしたね」「このたびはお気の毒なことで」等々、暖かいいたわりの言葉をかけられるだろう。
 しかし午後2時50分の給湯室では「あのひとオヤジ狩りに遇っちゃったんだって。オヤジよオヤジ。うぷぷぷぷ」と笑われてしまうのだ。かわいそ。同僚は取引先で「君んとこでオヤジ狩りに遇ったひとがいるんだって。まだ若いんだろ」と問われ、「いやあ、元からオヤジみたいなやつなんですよ」などと軽口のネタにされてしまうのだ。かわいそすぎる。
 更にしばらくたって事件の記憶も薄れかけた頃になると、上司が彼のミスをたしなめるのに「ま、君ももうオヤジなんだからもうちょっとしっかりしてもらわないと」などと、彼の悲惨な体験を冗談にしてしまうようになる。かわいそすぎるではないか。そういう小さな出来事の積み重ねが彼等を自暴自棄に走らせ、そのうちにカラオケの席で「僕はもうオヤジなので昴を歌いますっ」などと叫ぶようになったりして、すっかりふてくされた人生を歩んでしまうことになるのだ。
 思えば、ノックアウト強盗の頃はよかった。被害者はひたすら同情された。しかし、オヤジ狩りの被害者は、そういう救いの手がさしのべられない不遇な気配がつきまとう。
 いま心配なのは、短絡的な高校生が「だったら、俺たちは」といって、オバサンを。
 こわすぎる。

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