011 96.03.07 「らしからぬ私」
スポーツマンらしくないプレイをすると、厳重注意を与えられた上にせっかくのそのプレイが無効になってしまうのだそうです。各都道府県支部に通達が出たんだそうです。こうやれん、というところからですね。日本高校野球連盟です。じゃ~ん、という感じですね。この団体は、時々おもいがけないギャグで楽しませてくださるので、私、気に入ってます。またまたやってくれました。ありがとう高野連。今回はトリックを使った牽制球がいかんと言ってます。ピッチャーセカンドショートセンターがよってたかって演技をしてセカンドランナーをだまくらかし、離塁したところをアウトにしちゃおう、というのがいかんそうです。あ、とうぜんルール上はなにも問題ないんですよ。スポーツマンらしくないのがいかん、とそのように高野連は申し述べておられます。あははは。えらいこと言いだしちゃったもんだなあ。すごいセンスです。
「なんとからしい」とか「かんとからしく」とか言われると、ひとによって感想がだいぶ違うと思うんだけどなあ。たとえば私にとってスポーツマンとは「やたらと明るいがギャグはちょっとつまらない」というような存在なんですけども。これを高野連発言に当てはめると、「地味な性格だがギャグはすごく面白い、そんなプレイは禁止だよ」となっちゃう。わけがわからない。仕方がないので、発言者の想定しているスポーツマン像を想像しなければならなくなるわけです。正々堂々とか純粋とか、まあそんなことなんだろうなあ。と、考えてはじめて理解できるわけです。まわりくどいですね。最初からわかりやすく「卑怯なプレイは禁止」って言ってくださいよう。
私はスポーツマンには縁遠いので、たまたまこのようなまだるっこしい思考経過が必要になってしまうのかもしれません。しかし思い返すと、「男らしい」「女らしい」「子供らしい」などと見聞するたびに「はて、それはどういう意味であろう。どういうことを表現したくてそういう言い方をしたのであろう」と考え込んでいた記憶もあります。そのたびに、何段階かの思考手順を踏んで、その発言の意図を探り出さなければならないわけです。
たとえば「高校生らしい」というと、私は「道路いっぱいに広がって歩くような邪魔な」というふうに理解してしまうんです。自分が高校生でなくなって以来、高校生と接触する機会がないもので、もはや高校生がどんなものだかわかりません。そのあげく、我ながら「この解釈はちょっと違うのではないか」と思わざるを得ないような見解を抱いてしまうのです。「こりゃ違うよな」と思い直して、理想的高校生像というものを想像して思考の泥沼に陥っていくわけです。ばかですね。
あるひとに話したところ、「そりゃ、分けて考えるからいかんのだ」と諭されました。そのひとが言うには「スポーツマンらしい」はひとつの単語として憶えておけばいいということなのでした。英単語の丸暗記と同じ憶え方だ、「愛らしい」や「嫌らしい」の仲間だと思えばよい、とのありがたい御宣託なのでした。ははあ、なるほど。そりゃあ、気がつかなかった。うん、それは便利だ。なあんだ、そうだったのか。
そのひとは、「まあ、そんなふうに考え過ぎるとこがおまえらしいんだけどな」とも言いました。私らしい? すかさず私は考え始めていました。はて、私とはどのようなものであろうか?
……考えなけりゃよかった。
そこにはただ風が吹いているだけでした。ひゅるるるる。
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