『雑文館』:96.08.24から96.11.21までの20本




061 96.08.24 「不思議の国の読書感想文」

 甥の勘太郎が、泣きついてきた。こやつは5年生になるというのに、泣き虫でいかん。夏休みの宿題を手伝ってくれ、という。なんだなんだ、私に算数のドリルをやれというのか。無理だぞ。私は1たす1が2であるという見解には懐疑的なのだ。
 そうではなかった。勘太郎は、読書感想文の書き方を教えてくれという。
「ふむふむ。書き方を教えればいいのか。実際に書くのは勘太郎なんだな」
「そうだよ」
 ならば、私にできないことはない。
「勘太郎は何を読んだんだ?」
「ふしぎの国のアリス」
「ははあ。そりゃまた、不条理なものを」
 子供向けに翻訳されたものであろう。あれは、童話のくせに大人が読んだ方が面白いからなあ。まあ、たいがいの童話はそうだが。
「ふじょ~り、って、なあに?」
「わけがわかんない、ってことだな」
 ごめんね、ルイス・キャロルさん。
「でも、ぼく、わかったよ」
 ほう。なにがわかったというのだろう。
「トランプがしゃべるんだよ」
 子供。
「お。そうか、そこに目をつけたか。えらいぞ、勘太郎」
 しめしめ。また、暇潰しができる。私は、ほくそ笑んだ。しかし、してやったりと思うとき、ひとはなぜ「しめしめ」というのだろう。もっとも、それをいうなら「してやったり」って、なんだろうなあ。ま、どうでもいいが。
 勘太郎は、誉められたと思って、無邪気に喜んでいる。
「で、勘太郎はさ、その本を読んで、面白いと思ったの?」
「うん」
「どんなふうに面白いと思った?」
「う。う~ん」
 意地の悪い問いかけをすると、たちまち勘太郎は口ごもった。了解した。だったら、もうちょっと真面目に考えてやろう。それでいいんだ、勘太郎。どんなふうに面白いかと問われてすかさず説明できる奴の言葉なんて、信用できないからな。
「勘太郎は、読書感想文を書きたいの?」
 勘太郎は、力いっぱい首を振った。「書きたくない」
「面白かったんだろ。その気持を他のひとに伝えたいとは思わないか?」
 裏側から訊いてみた。勘太郎は、考え込んだ。しばらく悩んでいた。私はほおっておいた。やがて、勘太郎は、おずおずと言った。
「思わない。面白かったのは、ぼくが、ただ、そう思っただけのことだから」
 よおし。私はとても嬉しくなった。
「うんうん。だったら、書かなくてもいいよ。感想文なんて」
「でも」
「文章なんて、自分が誰か他のひとに伝えたいことがあったときに、書けばいいんだ。自分で納得してるんなら、書くことはないよ」
「宿題やらないと、先生に怒られちゃうよお」
「そんな愚かな先生のことは、ほおっておけ」
「でも」
 ま、おちょくるのはやめにしよう。
「じゃあ、読書感想文っつうものを書いてみるか。勘太郎だったら、どんなふうに書く?」
「ちょっと書いてみたんだ。見て」
『ぼくは、ふしぎの国のアリスを読みました。おもしろかったです。どこがおもしろかったかというと、トランプがしゃべったところです。ぼくのトランプはしゃべってくれません。しゃべってくれたらいいなあと思うけど、しゃべってくれません。ざんねんです』
 どて。
「勘太郎は、これを自分で読んで面白いと思うか?」
「ぜんぜん」きっぱりと言う。「だから教えてもらいに来たんじゃないか」
 ふうむ。
「勘太郎は、その本を読んでトランプがしゃべったことがいちばん面白いと思ったんだろ?」
「そうだよ」
「だったら、真似すればいいじゃないか」
 勘太郎は小首をかしげた。?マークが頭上に飛び交っている。
「だからさ、不思議の国のアリスという本の立場になって書いてみれば」
 勘太郎は大首をかしげた。?マークの数が一挙に増加した。
 うひゃひゃひゃ。
「つまりだな、不思議の国のアリスという本がしゃべりだすんだよ」
「あっ」
 勘太郎の顔がぱっと輝いた。
「な」
「うん。書いてみる」
 勘太郎はいそいそとノートと鉛筆を取り出した。鉛筆を持ったまま凝固した。悩んでいる。やがて、言った。
「どうやって書けばいいのかわからないよ。書きたいのに」
 そうかそうか、書きたくなったか。
「じゃあ、書き出しだけは教えてやろう。今から言うから書き写せよ」
「うん」
「ぼくは、本です。不思議の国のアリスといいます。勘太郎くんが、今、ぼくを読み終わったところです」
 勘太郎は、喜んだ。書き始めた。
 私の方は、暇になったし腹も減ってきたので、スパゲティを茹でることにした。
「勘太郎、スパゲティ食うか?」
 返事がない。熱中している。
 ほおっておこう。つくれば、食うだろう。
 私はカルボナーラの作成にとりかかった。勘太郎は、長々と考えては少し書き、という作業を繰り返している。
「できたよっ」
 カルボナーラを皿に盛っていると、勘太郎が喜々として叫んだ。
「そうかそうか。こっちもできたぞ。食いながら読んでやろう。おまえも食え」
「早く読んで早く読んで」
「どれどれ」ずるるるるっ。
『ぼくは、本です。ふしぎの国のアリスといいます。かん太郎くんが、今、ぼくを読み終わったところです。』
「おまえ、自分の名前、漢字で書けないの?」ずるるるるっ。
「書けるよ。でもめんどくさいんだもん。いいから、早く読んでよ」
「わかったよ」ずるるるるっ。
『かん太郎くんは、ぼくのことをおもしろいと思ってくれたみたいです。ぼくはうれしかったです。ぼくの中には、ぼうし屋や三月うさぎが住んでいます。かん太郎くんは、しゃべるトランプを気にいってくれました。トランプがしゃべりだすのがおもしろいみたいです。かん太郎くんのトランプはむ口みたいです。かん太郎くんはかわいそうですね。ぼくのトランプたちはとてもおしゃべりです。へんなこと言って、アリスを困らせます。かん太郎くんのトランプはかん太郎くんを困らせないので、いいと思います。でも、かん太郎くんはしゃべるトランプがうらやましいみたいです。どこかに売っていないかなあ、と思っているみたいです。売ってないです。ぼくの中にしかありません。かん太郎くんが、またぼくを読んでくれるといいな、と、ぼくは思います。』
「ほほう」
「ね。どうだった? 面白い? 面白くなかった? ねえねえ」
 さて、なんと答えようかな。よく書けている、と思う。先生がどう評価するかは知らんが、小学5年生にしてはいい出来だと思う。
 勘太郎は、スパゲティを絡ませたフォークを宙に漂わせたまま、私の様子をうかがっている。食べるどころの心境ではないらしい。
 直すべきところはいくらでもあるが、まあ、細かいことはどうでもいいや。小論文の添削をやってるわけじゃないからな。
「面白かったよ。うまく書けてる」
「ほんと? ほんとにほんと?」
「ほんとだよ」ずるるるるっ。
「わあいっ」
 勘太郎は無邪気にはしゃいだ。
「まあ、食えよ。冷めるとうまくないぞ」ずるるるるっ。
「うんっ」
 勘太郎は、にこにこしながらカルボナーラにとりかかった。
 勘太郎が食べ終ると、私は訊いてみた。
「どうだった? うまかった?」
 勘太郎は、即座にしかも素気なく答えた。
「あんまり、うまくなかった」

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062 96.09.07 「ヒマワリの壁の向こうから」

 カウフマン・マーク・アンドリュウさんは、神奈川県相模原市在住の米国人で、25歳です。職業は神奈川県立弥栄西高校の教師です。私はアンドリュウさんには会ったこともありませんし、昨日まではまったく知りませんでした。
 ところで、米国人ってなんだろう。私はこの3文字の漢字が意味するところがどうもよくわからない。正直に言うと、さっぱりわからない。あ、どうでもいいことですね。失礼しました。
 それでまあ、新聞の社会面の記事に出ていたので、彼の存在を知ったわけです。こういうところに登場するひとは、とてもよいことをしたか、ちょっと悪いことをしたか、とても悪いことをしたか、ま、だいたいはこのうちのどれかということになってますね。ちょっと良いことをしただけじゃ誰も褒めてくれませんが、ちょっと悪いことをするとたちまち非難糾弾のアメアラレ。そのような展開が待ってます。アンドリュウさんは、ちょっと悪いことをしちゃったんですね。大麻取締法違反(栽培)容疑で逮捕されちゃったんです。神奈川県警相模原署は、高さ2.1~2.4メートルに成長した大麻7本を押収した模様です。大麻の長さを測る、そういう仕事もあるのだなあ、と感慨に耽ってしまう私なのでした。
 アンドリュウさんがこの大麻をどこで栽培していたかというと、なんと市民農園なのだそうで、あらまあカウフマンちゃん、なんてお茶目なんでしょう。われらがカウフマンちゃんは、市民農園の1区画(約20平方メートル)を借り受けて、しゃあしゃあと非合法活動に精を出していたというんです。もうナメきってますね、カウフマンちゃんは、地方行政を。学ばなければなりません。
 カウフマンちゃんもそこはだてに教師をやっていたわけじゃないようで、すこしは工夫をしたんですね。ヒマワリを植えたっていうんですけどね。大麻の周囲に。ヒマワリを。ヒマワリを植えたんですよ、われらが愛しのカウフマンちゃんは。
 市民農園でヒマワリはあんまり栽培しないんじゃないかと思いますが、ふつう。カウフマンちゃんの故郷サウスカロライナ州ではヒマワリを食用にするのかも知れません。ま、カウフマンちゃんの故郷がどこなのかは、私、知りませんが。
 ヒマワリがどんどん伸びて大麻を覆い隠してくれるだろう、ってのが、カウフマンちゃんの目論見だったようです。ヒマワリのファイアウォールをつくろうとしたもののようです。サンフラワー、ファイアウォール。まあ、わかんなくはないですけどね。甘いですね、カウフマンちゃんは。
 目論見、という単語が過去の事象の動機説明として登場すると、多くの場合、その意図は失敗に終わったという事実を暗示しているってことになってますが、カウフマンちゃんもあえなく御用になっちゃいました。カウフマンちゃんの思惑は外れてしまったんです。ひとが知恵を振り絞ってやったことは結果的にたいがい間が抜けてますが、愛すべきわれらがカウフマンちゃんもやっぱりおまぬけなのでした。
 あのね、カウフマンちゃん、向日性の植物は暗がりを脱しようとしてどんどん伸びるものなんだよ。
 まわりの区画を借り受けた方々は、ナスキュウリトウモロコシトマトなどを植えて悦に入ってたわけです。食糧を収穫するために市民農園を借りたわけです。
 そこにヒマワリ。なぜにヒマワリ。カウフマンちゃんの区画は、もう注目のマト。好奇の視線で眺めていたところ、ヒマワリの向こうになにやら見たこともない植物が。通報。当局へ通報。
 あわれ、ミスタ・カウフマン・マーク・アンドリュウは、容疑者へと変貌してしまったのでした。
 いいよね、こういうひと。初めの一歩をあらぬ方に踏み出した結果、予想もしなかったゴールに辿り着くひと。カウフマンちゃん、送還されちゃうのでしょうか。
 しょうがないですけどね、ま、そんなに悪い奴じゃあないと思いますよ、なんとなく。ちっとも根拠、ないですけど。だって、カウフマンちゃん、おまぬけなんだもん。

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063 96.09.18 「連休大直列」

 カレンダーの日付が赤くなっている日はオシゴトという方にとっては、なあにタワゴトをほざいてやがんだばかやろ、な話です。最初に平身低頭。
 今年は台風があんまり来ないなあ、外れ年なのかなあ、と思っていたら、連休の当たり年であることがわかりました。意外な伏兵でした。連休、なかなかどうして侮れません。
 いやあ、もうすぐ今年も終わりだというのにぜんぜん気がつかなかったなあ。そうだったのか。なんとなくカレンダーをしげしげと眺めてたら、惑星大直列みたいに連休だらけの一年なんだもんね。驚きました。連休眼に優れた私もさすがに気づきませんでした。振替休日やサンドイッチ休日あたりの在野勢力を総動員した結果、孤立した祝日は春分の日と体育の日の二日だけになっちゃってる。あとはぜんぶ連休。それでいいのかニッポン。
 ……いいよね。ね。ねっ。
 いや、その、なんだ、私はいいと思うんですがあ。
 もっとも、大当たりした翌日の打線はぱったり打てないというベースボール第三の法則によって、来年は壊滅的な状況を呈してます。虫食い状態。ぽつんぽつんと点在する赤い字。それはやだよねニッポン。
 さて、仲間外れになった二者の今後の身の振り方です。体育の日は木曜日で、土曜日も休みのひとは金曜日に休暇をとって代打満塁サヨナラ四連休という感動の大逆転劇が残されてるので、まだ救われます。更正の道は閉ざされてません。非を悔いて慎ましく暮らしていれば、いつかは連休愛好家の救世主として崇められる日も訪れるでしょう。
 そこへいくと、どうしようもないのが春分の日です。こともあろうに水曜日。なすすべもないとはこのことです。過ぎ去ったこととはいえ、この不始末は見逃せません。見逃しの三振は首脳陣が最も嫌うところです。こやつはもともとお天道様のなすがままに居所を変える性癖があって、年によって違ったところに出現する札付きの日和見主義者として知られてます。それが何をとち狂ったのか、他の祝日仲間に背を向けて今年に限って孤高の道を突き進んでしまったんですね。どこにでもいますね、こういう天の邪鬼なひと。うまく立ち回って見事に月曜の座を獲得した兄弟分の秋分の日を、すこしは見習って欲しいもんです。しかも、来年は木曜日。いささか反省の色が見えるものの、怪しいもんです。この腰の落ち着かない風来坊は、一度痛い目にあったほういいようですね、どうも。
 とはいっても、日付が固定されていない祝日という考え方には大いに学ぶべきところがあります。やがて制定される祝日にはぜひともこの思想を導入して頂きたいですね。それも、一歩推し進めて日付より曜日を重視する。やはりこれしかないでしょう。六月第一月曜日とか八月第三月曜日とかね。月曜がポイントです。かならず連休、ぜったい連休、なんてったって連休。振替休日にはもう頼らない、自立した祝日。立派です。祝日の鑑といえましょう。
 提唱してるひと、いっぱいいるけどなあ。でも、自分で思ってるほどいっぱいじゃないのかもしれない。自分もそう思ってるから目につくだけだったりしてね。意外に少数派なのかなあ。名目はなんでもいいからとにかく祝日を増やして派。
 まあ、同じ主張を持つみなさんは多いとは思うんだけど、こういうのは一大ムーブメントとしては盛り上がらないからしょうがないんですね。同志が団結して国政に積極的に働きかけよう、なんて動きにはなりません。
 だってほら、みんな怠け者だから。

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064 96.09.23 「洗濯を誤る」

 ふと、いつもと同じ日常の繰り返しに疑問を抱く。そういう瞬間があるといいます。ある日とつぜん俺の人生はなんだったのか、などと思うんだそうです。なんだかよくわかりません。俺はこのままでいいのか、などと自問するそうです。どうもよくわかりません。でした。
 今日までは。
 聞いてください。私もついに、自分のジンセイに疑問を持ちました。とうとう、やりました。感無量です。
 それはおめでとう。どうもありがとう。とりあえず二重人格者になって、自分を誉め讃えてみました。
 疑問は、私がサンヨー全自動洗濯機ASW-240Sのスイッチを投入した瞬間に、雷光のように私を貫きました。
 いかん。このまま毎日おなじ方法で洗濯をしていたのでは俺は駄目になってしまう。もっと他になにか素晴らしい洗濯のやり方があるはずだっ。スピーディコースとかウールコースなどという小手先の変化ではない、これまでの生き方をすべて否定し尽くし新天地を切り拓く究極の洗濯があるはずだっ。
 そのように思ったわけです。
 でも、どうすればいいのかわかりません。
 疑問があるときゃ辞書を引け。とは、恩師神部先生の口癖です。私はこれまで辞書を引くことで数々の疑問を解消してきました。若いという字は苦しい字に似てることも辞書から学んだし、水素もつくりました。神部先生のお蔭です。
 とりあえず、洗濯という行為の意味を調べてみました。取り出したるは、お約束の三省堂「新明解国語辞典」。この辞書じゃないとちょっと恥しいという時代になってしまったので、私も先ごろ購入しました。「よごれた衣服などを洗ってきれいにすること。洗いすすぐこと」。おっと、これは新明解とも思えない無難な解釈。そんなことは知ってるよう。
 用例の「命の洗濯」、これはヒントになるかな。「日ごろの仕事から解放され・雄大な自然(すぐれた芸術品)などに接して、崇高な気持になったり・新しい(明日の)仕事に対する意欲を感じたりすること」。はあ、そうですか。「命」の項にも「命の洗濯」が出てました。「気晴らしをして、日ごろの苦労・うっぷんを慰めること」。ずいぶん違うなあ。どっちが正しいんだろう。なんにせよ、命を洗濯すると日頃の苦労が解消されるみたいですね、どうも。
 そうすると、衣服にとっての仕事や苦労はなんでしょう。ひとに着られることでしょうか。きれいになると気持ちがいいのでしょうか。衣服は。私は衣服ではないのでサダカではありませんが、洗濯機でごろごろと揉まれた挙句に吊るされてしまうのは苦行ではないのでしょうか。一方で、脱ぎ捨てられてから洗濯機を経てタンスにしまわれるまでの間は、衣服ではなく洗濯物であるという見解もあり、事態は混迷の度を深めていきます。所詮は一介の洗濯者に過ぎない私としては、洗濯物の気持はわかりません。
 更には、ひとに着られない衣服こそ苦労の毎日を送っているという主張、いやそもそも買われない衣服こそ苦労の連続といった意見なども噴出し、私は混乱の泥沼でのたうちまわるはめになるのでした。
 衣服の立場から洗濯を考えるのは難しいようです。原点にかえって、現在私が定期的に行っている洗濯のいったいどこに問題が潜んでいるのかを考えてみましょう。実は問題は明らかで、「いつも同じ作業」という点にこそ病根があるわけです。
 洗濯機に洗濯物をぶちこむ。スイッチを押す。スイッチを切る。干す。
 こうした単調な作業の繰り返しに、本日、私はふと疑問を抱くに至ったのです。「オリーブの首飾り」を口ずさみながら洗濯物を投げ入れると趣がある。そういう教えを頂き、さっそく試してみたこともありましたが、どうも尻切れトンボの感は否めません。干すときにも口ずさんでみましたが、通りかかった隣家の奥さんがうさんくさそうな目つきを慌ててそらしただけでした。
 他にも、乾燥機を買う、いっそ電気洗濯機を使わずに自らの体力のみで洗濯に臨む、などといった方策を思いつきましたが、経済的または体力的事情がそれを許しません。
 ついには、洗濯などはせず汚れた衣服はすべて廃棄するという大胆な手法も脳裏を横切りました。これを実行できるほど思い切れたら、ジンセイががらりと変わるような気がします。
 思い切れるわけないけど。
 やはり私のように苦悩に不自由なひとは、思い悩んじゃいけませんね。さて、せんたくせんたく。
 今日の苦悩より、明日のぱんつ。

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065 96.09.23 「いい天気」

 ああ、とってもいい天気だった。
 今はもう、どうでもいい天気。雨はもうあがって、風はぱったりとやんでしまった。夜空には雲もなく、星が輝いている。風の音のかわりに虫の音。劇的。気象の不思議。あの破天荒は、いったいなんだったのか。
 ゲイムは終わり。さよなら台風17号。
 テレビに映る気象図を見ると、彼は今、宮城県沖にいるらしい。
 いい天気というと、それは晴れということになっていて、べつにその見解に異議をさしはさむつもりはないけれど、私の個人的なたぶん大方の同意を得られない意見では、晴れはとりたてていい天気ではない。晴れは晴れだ。単に、晴れている。それだけ。よくもわるくもない。ただ、すごしやすいに過ぎない。
 台風はたいへん好きだ。好きなので、それはいい天気だ。大雪なんかも好きだ。要するに、日常生活が乱れざるをえない天候が好きなのだ。もっとも、こういう天候はたまに訪れるから興奮するのであって、毎日台風がきたら台風なんか大嫌いだと声高に叫ぶことになるだろう。わがままじゃない人にはまだ会ったことはないが、私も例外ではない。わがままは、あなたと私の属性である。
 日中は、あてもなくクルマを走らせていた。よせばいいのに、やめられない。ついふらふらと外出してしまう。見慣れた光景が一変しているのが面白い。申し訳ない。面白い。
 稲刈りが終わった田んぼは、のきなみ湖と化している。畦は冠水し、一面が水面となっている。道路さえ見当たらない。電信柱を目印に湖を渡る。周囲はすべて水面。はらはらしながら加速する。どこかへ行かなければならないわけでもないのに、無意味にクルマを走らせる。愚かとしかいいようがないが、それを自覚しているだけましだと言い聞かせながらアクセルを踏む。横殴りの風雨に車体が揺れる。道路が陥没していて、そこにはまったらもはやなすすべもない。そろそろと、水を掻き分ける。
 なんでこんなことをしているのだろうと、考える。わからない。理由は常に、行動には追いつかない。
 市街地にも行ってみる。商店のシャッターは閉まり、人影が少ない。看板は倒れ、街路樹の折れた枝が路上に散乱している。ばきばきとへし折りながら走る。ところどころで側溝から雨水が溢れている。気持が昂揚する。
 わかってます。この台風で困っているひとがたくさんいることはわかってます。ああ、でも、興奮しちゃうイケナイ私。
 その後も、いろいろなところを巡ってしまった。利根川の増水状況をつぶさに観察し、かねて目をつけておいた崖の崩壊具合を視察し、低地にある住宅の浸水の危険性を精察した。なんのつもりであろう。自分ではわからない。
 以上は、昨夜に書いたもの。
 ぐっすり眠って昼頃に寝覚めると、すがすがしい青空だ。思わず、深呼吸。気持がいい。空は高く、大気は澄み渡り、近所の小学校から運動会らしき音が聞こえてくる。昨日の予定が今日に順延になったのだろう。観に行ってみようかな。
 それにしても、なんていい天気なんだろう。
 言ってることが昨日と違うが、ま、人間、こんなもんです。

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066 96.09.23 「運動会の達人」

 好天に誘われて運動会に出掛けた。近所の小学校だ。べつに子供がいるわけではないが、昨今の運動会事情はどのようになっているのか、ふと興味が湧いたのであった。昼頃に起床して、窓を開けると、運動会自体が発する以外のなにものでもない音が聞こえてきた。朝方に花火が鳴っていたが、そういう展開であったか。
 てくてくと歩いていく。歩いていくほうが運動会には似つかわしい。途中のコンビニで缶ビールと柿の種を購入。校庭に足を踏み入れると、まごうかたなき運動会の開催中。
 さて、どこに陣地を定めようか。ジャングルジムや滑り台といった一等地は既に占拠されている。はてさて。ふつうは「ウチの子」というものを見に来るのだろうが、私には特に目的の人物がいるわけではない。子供ではなく、運動会を見物に来たのだ。そう考えると、全体が見渡せる場所がいい。校庭の隅っこにベンチがあって、誰も座っていない。あそこにしよう。競技の展開はほんの少ししか見えないが、まあいい。腰掛けて、とりあえず缶ビールを開ける。
 伸びをして、校庭を眺め渡す。いやあ、こういう雰囲気は久し振りだなあ。
「ここ、空いてますか?」
 ひとりのお父さんが現れた。
 ん。このベンチのことかな。「空いてますよ」
「それじゃ、失礼」
 お父さんは、どっこいしょと呟きながら私の隣に腰をおろした。
「いやあ、運動会も楽じゃないですなあ」
「はあ」
「毎年毎年、同じ事をねえ。今年で15年連続で来てるんですわ。ま、皆勤賞ですな。うちのは下の奴が今年やっと6年生でね、今日でようやく終わりですよ」
 親の立場で運動会に参加し続けて15年。もはやベテランの風格を漂わせるお父さんなのであった。
「お宅のお子さんは、何年生ですか?」
 ゑ? お子さん? いや、それは、その。
「1年生なんです。今年が初めてで」
 もう、嘘ばっかり。
「ほほう。じゃあ、これからが大変ですなあ」
「はあ? 大変ですか?」
「大変ですよ、そりゃもう」
 お父さんの視線が私の缶ビールに注がれる。あ、こりゃ気がつきませんで。ごそごそ。どうぞ。あ、いいんですかすみませんね。いえいえ、御遠慮なく。大人の会話。
「しかしあなた、初めてだというのにこんな隅っこの方で悠然と構えているあたり、なかなか通ですな」
「は。通、ですか」
 なにかどうも、お父さんは長年の体験を通じて運動会における父兄のあり方というようなものを会得するに至ったようだ。
「そうですとも。皆さん、ビデオカメラなんか回してますけどね」
 お父さんの蘊蓄はまず映像の記録といった方面に向けられた。見回すと、なるほどビデオカメラの撮影会としか思えない。
「あんなことしちゃいけません。無駄です。あんなもの誰も見やしません。素人のアングルはめちゃくちゃで、鑑賞できたもんじゃありません。かといって、テープを捨てるわけにもいかない。子供に怒られちゃう。一度見たきりであとはぜんぜん見ないくせにね。はなっから、ビデオなんか撮らないほうがいいんです」
 あのう、お父さん、あなたの撮影が下手なだけなんでは?
「普通のカメラはどうでしょう?」
 カメラを持っている人もちらほらといる。ビデオ派に比べると肩身が狭そうだが。
「いや、いけませんな。子供に怒られちゃうんですよ。カメラはかっこわるいってね。友達に馬鹿にされるからビデオにしてくれと言うんですな。ビデオが嫌ならいっそのこと手ぶらでいてくれ、と」
「はあ。そんなもんですかねえ」
「まあ、高学年になると生意気でね。あなたのところのように低学年のうちはまだ大丈夫ですよ」
 大丈夫、ですか。そりゃよかった。よくねえか、べつに。
「いやあ、実は私、手ぶらでして」
 私は正直に告白した。なにが正直なんだかよくわからんが。
「それは偉いですな。わかってらっしゃる」
 誉められてしまった。なんだか嬉しい。調子に乗って、教えを乞うてしまう。
「あのう、父兄が参加する競技がありますが、あれはどうでしょう。参加したほうがいいでしょうか?」
 お父さんはぐいっとビールを呑み干して腕組みした。すかさず、追加のビールを差し出す私。
「あ、こりゃすみませんな」ぷし。ぐびり。「そうですなあ、それは難しい問題ですな。体力に自信があればいいでしょう。しかし、負けると子供の親に対する評価は、必ず低下します。できる限り避けるという消極的な対応しかありませんな。不参加の場合は子供が納得できる理由を用意しなきゃなりません。二、三日前から足に包帯を巻いたりむやみに咳をして風邪をひいたふりをしたり、いろいろやりましたよ。女房の説得工作も重要ですな。女房からも吹き込んでおいてもらうわけです。お父さんは怪我してるんだから無理なお願いをしちゃ駄目よ、とかなんとか」
「なんだか、大変ですねえ」
「大変ですよ。子供の運動会を甘く見ちゃ痛い目に遇いますよ。連中も予行演習で大変でしょうが、親も事前に準備しなきゃなりません。毎年不参加だとこれまた子供の不審を招くので、まあ隔年で参加するわけですな。参加する年は半月くらい前から、にわか体力作りです。ジョギングしたりしてね」
「半月で効果ありますか?」
「ありますあります。100のうち10だった体力がすぐに50になります。50から90には絶対になりませんが。ま、人並には戻るわけですな。というよりも、実は、ジョギングしている姿を子供に見せるというのが重要なんです。自分の運動会のためにお父さんは準備しているんだ、と思わせる。これですな。成績が悪くても納得してもらえる」
 深い。なんだかとてつもなく深い思索があるのであった。眩暈がした。
 その後も、この運動会の達人というべき偉大なお父さんからは、いろいろと為になる話を聞くことができた。やはり、体験に裏打ちされた叡知は素晴らしい。漫然と眺めているだけではけして得られなかった知識をものにすることができた。収穫の多い一日であったというべきであろう。
 役立たせる機会はないのだが。
「いやあ、きょうは、長年蓄積してきた経験を有望な後継者に伝えることができた気がしますよ」
 別れ際に、お父さんは満足げに語るのであった。
「来年からは頑張ってください」
 って、言われても。

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067 96.09.29 「備えあれば嬉しいな」

 生ビール、生野菜、生足など、「生」を冠した途端に魅力を放ちだすものがある。じゃあ、生ゴミはどうなんだ、と、すかさず画面の前でツッコミを入れた皆様、まあ、そこはそれ、お互いオトナじゃないですかあ。ここはひとつオンビンに。ほらほら、そんなら生意気はどうだ、なんて言ってないで。ちょっと生意気だぞ。あ、オンビンでしたねオンビン。
 こうした生一家の本流を継承する一派に、生中継、生放送がある。テレビはともかく生じゃなきゃ意味がない、という偏見を持った人物は少なくない。いや、少ないかな。わしだけだったりして。そうだったらやだな。やだけど、ま、いいや。私は生放送以外のテレビ番組にいささかの価値も認めないぞ。勝手にせいとさじを投げられそうですが、最初からさじなど持っとらんってひとのほうが多いというのが現実だろうなあ。現実はいつも私に冷たい。
 冷たくされるのには慣れてるけど。
 って、ちょっと強がってみたりなんかしてみました。虚勢は、物心ついた頃からの私の親友です。
 結果的にニュースとスポーツ番組ばかり観ることになる。ワイドショウという選択もあるが、さすがにあれはちょっとね。スタジオに刃物を持った覚醒剤男が乱入したり、スタジアムに黄色と黒の縞模様に裸体を染めた浪花女が闖入したり。そういう狼藉が許されているのが生放送の素晴らしいところだ。もちろん、法令、官憲、良識などに許されているわけではないが、すくなくともそれは時間軸には許されている。即ち、次の瞬間になにが起こっても構わない。数秒後にどんな事件が勃発するかわからない。生放送の構図とはそういうものだ。
 期待は常にそこにある。なにが起きてもいい。約3.03センチ先は闇。
 収録、製作、編集などの過程を経た番組では、真の事件は発生しない。なんのために忙しいのにテレビを観ているのかわからなくなっちゃう。突発事件が起きる可能性がないのにテレビを観るほど、私は暇じゃないのだ。
 しかし、そうはいっても、生じゃない番組も少しは観ているのだった。どうでもいいバラエティやドラマなどを選択することもある。実際には、単にテレビがつけっぱなしになっていて、他のことをしているのだが。どういうつもりなのか、視聴可能なすべての放送局が収録番組を放映する時間帯がある。平日の関東では午後9時半から10時が、それだ。生放送がない。暗黒の時間帯だ。しょうがないので、ドラマなどを流しておく。
 そうまでしてなぜテレビをつけているかというと、臨時ニュースという魅力的な存在のせいだ。こやつはいつ乱入してくるか予想もつかない。従って、在宅中にはテレビは常につけられていなければならないのだ。備えあれば、嬉しいな。
 ポ~ンとかピンポ~ンとか、今から臨時ニュースのテロップが流れますよと知らせてくれるあの発信音は斯界ではなんと呼ばれているのだろう。私は朗報音と呼んでいるのだが、続いてテロップが伝える事柄が朗報であったためしがないので、これは違うはずだ。朗報音に注意を喚起されてからテロップが出てくるまでの数秒間の気持の高まりは、こりゃもうこたえられない。とはいえ、当たり外れは大きい。「なんとか県知事選でかんとか氏が当選」はあ、そうですか。「九州北部で地震発生。各地の震度、佐賀4、長崎3」ふうん。「成田空港で旅客機が不時着。死者が出ている模様」うわあ、そりゃ大変だ。その瞬間からすべてを放擲して、リモコン片手に各放送局のハシゴと相成る。
 いつもはスクリーンセイバーが働いて音量は0になっていて、朗報音を受信するやいなや、設定された音量とともに画面が蘇る。そういうテレビが発売されたらいいのにね。って、誰に同意を求めているのか。
 もっとも、本当に重大な事件や災害が発生したときには悠長にテロップなどを流したりはせずに、いきなり有無を言わせずネクタイの曲がったキャスターが登場してくるわけで、なにも本気でそのようなテレビが欲しいわけじゃないですから、家電メーカーの方々は真に受けて開発したりしないでくださいね。しねえよ。
 ま、そのように、第二のミシマが市ヶ谷駐屯地を占拠しないか、オウムの残党が浅間山荘に立て篭らないか、と、日夜、期待を募らせる私なのであった。相当、性根が悪い。
 こうした私の不断の努力は、年に数度、報われる。たいへん高い確率だ。やめられません。

 そういうわけで、好きな番組はと訊かれると、深夜の台風情報と答えることになる。あれはたいへん興奮する名番組だ。私の昂揚を煽ってやまない。NHKしかやらないが、なぜだろう。ここに熱烈な視聴者がいるのだが。「森田さんの台風情報」とか観たいよな。「台風が来ては不倫どころではありません」などと言いつつ、わかりやすい解説をして頂きたい。「ヤン坊マー坊の台風情報」なども捨て難いと思う。せっかく台風が来ているんだからもっと盛り上げて欲しいよなあ。
 国勢選挙の開票速報も好きだ。あれは各局が工夫を凝らすのでたいへんよろしい。見どころは、当確の取消ただ一点だが。さっきついてた当確マークがいつのまにか消えていたりするので面白い。わははは、テレ朝ってば、ま~た先走ってやがんの、などと放言しつつ自堕落な態度で飲酒する。開票速報は一級の娯楽番組だ。
 このように、一介のテレビ野次馬は今日も観もしないテレビをつけっぱなしにしているのであった。でんこちゃん、すまん。

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068 96.09.29 「ここでいったんコマーシャル」

 私は今、一冊の書物を宣伝しようとしているのだが、特に要請があったわけでもないのにそうした行為に走る背景には当然、ヨコシマな思惑がある。
 関係者というにはあまりにか細いつながりであり、実際のところはほとんど第三者なのだ。面識もない。しかしながら私は、この書物の著者の関係者と断ずるにやぶさかではないような気がすることであるよなあ、と古文解釈調で油断させつつどさくさ紛れに関係者の末席に連なってしまうのであった。
 つまりは、著者の妹は私の友人であり彼女の夫もまた私の友人なのであった。この姑息な宣伝活動が実を結んだアカツキには、彼等の住いに乱入した折に「いっぱいビールを呑ませてくれる」「うっかりしたふりをして役満を振り込んでくれる」といった果報が期待できるのだ。
 では、宣伝申し上げたい。
 柳田理科雄著「空想科学読本」宝島社刊、1200円。というのが問題のブツ。
 初版は今年の3月。私が入手したのは9月20日12刷。評判の本なのかもしれない。
 宝島社から発行された時点ですでにこの書物の位置付けがなされているわけで、それが不幸なのか幸福なのか私にはわからない。おそらく幸福であろう。
 理科雄というのは本名だそうで、ずいぶん変な名であるとしか言いようがないが、これほど本名に忠実な人生を歩んできた人物もまた、ずいぶん変だ。
 この書物を支えているのは、著者の無駄な情熱だ。この世のほとんどの情熱は無駄だが、ここまで無駄を究めると感動を呼び起こす。ウルトラセブンが身長を自在に変えられることについて、理科雄さんは科学的に検証するのだ。理科雄さんの探求心は、ガメラが吐く炎の生成過程、コンバトラーVの合体方法、ゴジラの適性体重、宇宙戦艦ヤマトの重力問題、仮面ライダーのエネルギー源、といった破天荒な設定に敢然と立ち向かう。あらゆる齟齬を乗り越え、強引に検証し立証する。科学だの理科だのに門外漢の私にさえ、それが途方もなく無益な作業であることはわかる。素材として選ばれたフィクション自体のそもそもの設定が科学的には無茶なのだ。
 理科雄さんは、怪獣図鑑その他を基に彼等の存在理由を吸い上げる。そして、科学にはほど遠い居心地の悪そうな場所から、対極点にある科学が存在する住み慣れた場所へと、苦難の旅を始める。
 理科雄さんは肯定する。そういう傍若無人な設定をとにもかくにも肯定し、そこから実証への第一歩を踏み出す。大いなる無駄への第一歩だ。
 結果的に、理科雄さんの検証作業は、物事の一面しか捉え得ない。基本的に無茶苦茶な設定の全体像を視野に入れて俯瞰するのは不可能なので、これは当然の措置だ。
 理科雄説によれば、ウルトラセブンが例のあの寸法に巨大化するには実に15時間を要するという。科学は、そう語るらしい。理科雄さんは具体的な数字を挙げてその過程を律儀に証明していく。無駄なのだ。私のような門外漢は、たぶんその証明は正しいんだろうなと思いつつそのあたりの記述を読み飛ばす。わけがわからないからだ。理解するために必要な小学生程度の基礎的な理科の素養がない。この列島の人口のほとんどは、そうした素養がない。私もその一員だ。だから、ただ斜め読みして、結論を読みたがる。
 結論は簡単だ。難しい理論と複雑な計算の果てに、「要するに、巨大化するのは大変なのだ」と記述される。なんだかよくわからない論理と不可解な数字の羅列が導き出した答えが、これだ。爆笑。そう、私はその結論を読みたかったのだ。満足以外の感想はない。
 そんなふうにして、理科雄さんは、ゴジラは産まれた瞬間に即死するとか、レッドキングを投げたウルトラマンは自分自身が気絶するとかの結論を提示する。
 この本は、そうした無益な思考の集成だ。買われなければならない。
 私としては、とにかくこの本を買ってください、としか言えない。図書館で借りたりしてはいけない。友達に借りるのもよくない。出版社は売り上げの実績をもって、次回作への執筆依頼をするのだから、続編あるいは同じ思想に貫かれた新たな一編を読みたい私としては、ぜひとも購入をお願い申し上げる次第だ。読まなくてもいいからさ。おいおい。
 私が愛してやまない無駄が、「空想科学読本」には充満している。

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069 96.09.30 「竹田さんの安らぎ」

 社内の自動販売機に110円を投入したところ、いきなりごろんと缶コーヒーが出てきた。
 ?
 あら? あらららら?
 どうしたんだろう。ウーロン茶を買おうと思ったんだけどな。間違ってボタンを押しちゃったのかな。時々、記憶が途切れることがあるけど、また起こったのかな。俺の頭、やっぱり変なのかな。どうしたのかな、かなかなかなかな、と、ヒグラシになっているうちに、そもそもボタンなどは押していないことに思い至った。100円玉と10円玉をそれぞれ投入しただけだ。間違いない。断言してもいい。ボタンなど押していないぞ。ねえ、聞いてくださいよ。私はね、ボタンなんか押していないんです。道行く人に訴えようと思ったが、ここは社内の廊下で、あたりに人影はない。
 ちぇ。
 それにしても、どういうことなのであろう? なぜ缶コーヒーが? はて? 仕方なく缶コーヒーを飲み干しながら怪奇ハテナ男と化していると、背後から肩を叩かれた。
「いやっほ~」
 能天気である。竹田弘子、そのひとであった。夫も子もいる身でありながら、このひとはどうも軽い。いきなり飛び出してくる。物陰に隠れていたもののようであった。
「ねねねねね、飲んだ? 缶コーヒー、飲んだ? 飲み終わった?」
 は? はあ。
「の、飲み終わったけど」
「そそそそそ。じゃあ、空缶ちょうだい」
「空缶?」
「そうそう。空缶よ。ちょうだい」
 わけがわからないが、竹田さんの気迫に押されて、飲み終えた缶コーヒーの空缶を手渡した。
「ありがっと~」
 竹田さんは、空缶からシールを剥がし、かねて用意のハガキに貼った。
 なあんだ。
「なにが当たるの?」
「がんばってコートよ~」
「誰がコマーシャルやってるやつ?」
 なにしろ、プレゼントをばらまかない缶コーヒーはない。
「飯島直子よ~」
「ああ、あれね。あ~オトコの安らぎ」
「そ~そ~そ~」
「しかし、暇だねえ。誰かが缶コーヒーを買うのを見張ってるわけ?」
「そんなに暇じゃないわよ~。わたしにもシゴトがあるのよ」
「そう?」
 そうは見えねえなあ。
「そうなのっ。さあ、シゴトシゴト。あんたも励みなさいよ。さあ、頑張っていこっ」
 竹田さんは小さくガッツポーズをつくった。飯島直子の真似をしているつもりらしい。
「……似てないけど」
「それは言いっこなしよ~」
 竹田さんは、がはははと笑ってから、自動販売機に向き直り、缶コーヒーのボタンに貼られたセロテープを丁寧に貼り直した。
 私は絶句した。缶コーヒーのボタンは、セロテープによって常に押された状態になっていたのだ。これじゃ、硬貨を入れた途端に缶コーヒーが出てくるわけだ。
 まいった。
「さあ、シゴトしましょシゴト」
 竹田さんは、あ~オトコのやすらぎ~、と口ずさみながら去っていった。
 私は、取り残された。わしはちっとも安らいでいないぞ。あんたがひとりで安らいでいるんだろうがっ。

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070 96.10.08 「おまえの母ちゃん」

 窓の外から子供同士の口喧嘩が聞こえてきた。なんとなく耳を傾けてたんだけど、どうも変。なにか物足りない。バカとかマヌケとか貧弱な語彙を繰り返しがなり合って、それなりに子供ならではの口喧嘩の様相を呈して微笑ましいんだけれど、もうひとつ盛り上がりに欠けるんだよなあ。いかんです。もどかしい、ったらありゃしません。
 そうだそうだ。あの決定版のセリフがないんだ。
 「ばか、かば、ちんどん屋。おまえの母ちゃん、出べそ」
 この、伝統と格式に満ちた名文句を口にせずして、口喧嘩といえましょうか。私は認めません。ええ、認めませんとも。これを言わなきゃ画竜点睛を欠いておるぞ、君達。
 出て行かねばなるまい。子供の正統的な口喧嘩のなんたるかを彼等に諄々と説いて聞かせ、更にはこのセリフの存在意義を周知徹底させ、あまつさえその発声と抑揚について懇切丁寧な指導を施してやるのだあっ。と、いきりたったけど、よく考えてみたらまったくもって面識のない子供だったので、あやうく踏みとどまりました。しかし、更によく考えてみると、こんなことでいちいちいきりたったり踏みとどまったりすることもないな。なんだろオレ。たはは。
 それにつけても、このセリフはなんだというのでしょう。もう、めちゃくちゃ。「ばか」、これは馬鹿の私にもわかる。罵詈雑言界の王道を行く真の勇者です。愛情表現界にも登場するなど、いくつもの顔を持ったフトコロの広さも余人の追随を許さないところです。
 次の「かば」。なぜここに、河馬さんが。単なる語呂合わせというだけで、河馬さんが。かわいそ。かつてこれほど悲惨な生涯を運命づけられた動物が存在したでありましょうか。これほど不当な扱いを甘受してきた種族がありましたでしょうか。
 私はいま、中学生のみぎりに友人のヤマダくんが披露してくれたプールでの一発芸を思いだしています。「カバのひとつ泳ぎ~っ」と叫ぶなり、肥満体のヤマダくんは身体を弛緩させて、ただ水面に浮かびます。ただ、それだけ。河馬さん、ヤマダくんにまでおちょくられてたんです。
 もう、ニッポンジン、みんな河馬さんをなめきってます。いけません。こんなことではいかんのです。と、思っていたら、英語ではヒポポタマスとか呼ばれてるのね、河馬さん。だめだこりゃ。河馬さん、未来ないわ。あきらめようね、もう。
 続いての「ちんどん屋」。(中略)んですね、やっぱり。
 そうして、真打ちが「おまえの母ちゃん、出べそ」。子供の喧嘩に親が出てくるわけです。これまでの三語にはほとんど意味がなかったことが、まず子供にとっての最も近い味方である母親を引きずり出した時点で明らかになります。自分に向けられていた矛先がいきなり背後の母親に向かう。常套句に深い意味を見出そうとしてはならないと常に自分を戒めている子供はいないので、かちんと来ることになるわけです。そこでまあ、行き掛かり上「おまえの母ちゃん、大出べそ」と言い返しますな。そうして事態は果てしなく混乱していく、とまあ、子供の喧嘩はこうでなくちゃいけません。
 それにしても、出べそがなぜ罵倒の最終兵器となるのでしょう。こういう問題をつきつめていくと、この民族の差別意識とか排他性とか面白くもなんともない結論に行き着くだけだったりしますが。
 私は、幼少のみぎりにこの罵倒に対してかように切り返しておりました。
「へへん。知らねえな。うちの母ちゃんにはヘソがないんだ」
 相手は、意表をつかれてたじろぎますね。
「うちの母ちゃんはカエルなんだぞ」
 ここで、じゃあおまえはオタマジャクシか、などと言いだす奴とはどうせこの先も仲良くやっていけないので、さっさと逃げ出します。それで終わり。あとで顔を合わせてもこちらから避けちゃう。
 たまに、今の今まで喧嘩してたことを忘れて私の話に興味を持ってくれる奴がいます。
「ほんと? ほんとにほんと?」
「ほんとだよう。兄ちゃんなんか、ケロヨンなんだぞ」
 ウケてくれる奴と真に受ける奴がいますが、どちらもそれからもずっと友達です。
 ううむ、この話を彼等に聞かせてあげたい。強烈な欲求が突き上げてきて、私は思わず窓から身を乗り出しました。しかし、ついさっきまで口喧嘩をしていた子供たちの姿はどこにもありません。
「しまった」
 つい、声を出して悔しがってしまいました。なんだろオレ。ほんとにまあ。
 それにしても、ケロヨンは古かったかなケロヨンは。

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071 96.10.10 「サウンド・オブ・サイレン」

 ゆうべTBSで森田さんが解説していたんですが、体育の日の本日は、統計的には晴れの特異日でもなんでもないそうです。びっくり。そりゃないでしょそれは。それじゃ単なる民間伝承じゃないですか。困るのよそれは。日頃、私がエラそうに知ったかぶりをしてぽたぽたと披瀝するウンチクのひとつが特異日なんです。いやあ、まいっちゃったなあ。東京オリンピックの、ばか。
 これまで特異日について滔々と私に語られた皆さん、ごめんね。私は間違っていました。たいてい間違ってますけどね。あんまり反省もしてないですけどもね。とにかく、ごめんね。ああ、すみません、私、謝れば済むと思ってます。ごめんね。
 だから、ごめんね、って、言ってるだろっ。はぁはぁ。
 しかし森田さんはいいひとなので、体育の日は降雨のない特異日という情報を授けてくださるのでした。ありがとう森田さん。
 本日、そちらでは雨が降っていますか。こちらでは雨も雪も血の雨も降っていません。晴れたり曇ったり、ところにより選挙カー。
 気象に特異日があるのだから、当然、一個人にも特異日が訪れますね。すべての約束がキャンセルされたとか、やたらと電話がかかってきて一日じゅう話し続けたとか。一日で17人を刺し殺したとか、ま、そういうような。
 昨日の私はサイレンの特異日でした。めったやたらとサイレンを鳴らした緊急車両に遭遇しまくりました。
 出勤時に、まず2台。後方でいきなりサイレンが鳴ったかと思うと、今しがた私を追い抜いていった車がスピード違反で御用となりました。遅刻しそうだったのかなあ。しばらくして緊急車両には似つかわしくない青い車が黄色いパトランプを回しながら、対向車線を通り過ぎていきます。ガス会社のパトロールカーのようです。ガス漏れ事故みたい。サイレンを鳴らしてるのを耳撃したのは初めて。ゑゑと、最初に目撃と書いて、一字だけ直してみたんだけど、やっぱり変だな。ま、いいや。気にしない気にしない。
 んでもって、パトロールカーを略したのがパトカーであったはずだけど、警察のアレしかパトカーと略さないのかなあ。どうなってるんだろう。建設会社で保有してるパトロールカー、社内ではパトカーって呼んでいたりするのかな。恐れ多いとか胸糞悪いとかの理由で、断じてパトカーとは呼ばなかったりするのかなあ。気になるなあ。ロールカーって略してたりして。
 シゴト中には7台に遭遇。勤務時間の半分の時間を運転に費やしていたという事情もあるけど、多いよなあやっぱり。7台とはいっても、事件としては4件。火事で消防車が3台、交通事故でパトカーと救急車が各1台。火事は煙が道路いっぱいに漂っていたし、交通事故は血が道路いっぱいに、あ、いやいや、これ以上は語りません。
 その他に、信号無視した車を追走するパトカーが1台と、救急病院を求めて疾走する救急車が1台。いやはや、耳が異様に敏感になっちゃいました。サイレンの幻聴が聞こえてしょうがない。余録としては、緊急車両の接近を察知して路肩によけるのがうまくなったな。こんなこと上手になってもしょうがないんだけどさ。
 夕方、カイシャに戻って本日の出来事をかくかくしかじかと話すと、同僚達にさんざん脅かされましたよ、もう。
 曰く、「次はオマエの番だな」
 曰く、「帰る途中で、パトカーに捕まるな」
 曰く、「いや、交通事故を起こして救急車で病院に担ぎ込まれるのではないか」
 曰く、「いやいや、ウチに帰るとアパートが火事になっているんじゃないか」
 そんなに苛めるなよお。私がいったい何をしたっていうの。勘弁してよ、もう。すっかり弱気になっちゃう私。
 「あんぜんうんてん」と5億6千万回ほど唱えながら、あらゆる交通法規を遵守しつつ、そろそろと車を運転して帰りましたよ、私は。近づくにつれて、煙が見えやしないかと、ウチの上空を注視しながら。そうさ、オレは小心者さ。
 アパートは火事になっていなかった。よろよろと車を降り、ぐったりと車に背中を預けて吐息をついていると、いきなり傍でサイレンが鳴りました。
 いっしゅん喉から飛び出した心臓を呑み下しながら音のした方を見やると、タクミちゃんがおもちゃの銃を構えてた。
 おいおい。
 引き金をひくとサイレンが鳴る仕掛けになっているらしい。タクミちゃんは、隣家の幼稚園児で、妙にウマが合うので時々遊んでいる。私の感性は幼稚園児並と誉れ高い。
「タイホするぞ」
 タクミちゃんは、高圧的に命令するのでした。
 私は胸に手を当ててみました。私の心臓は凄まじいスピードで血液を送り出してましたよ、もう。どくどく、どくどく、どっくどく。
 なあ、タクミちゃん、今の私に、それはシャレにはならんのよ。
「タイホしないでください。お願いだから」
 私は諸手を挙げて、そうお願いしましたですよ。
 タクミちゃんは、満足げにうなずきましたね。
「よ~し、みのがしてやろう」
 ほっ。
 私は部屋に入り、後ろ手にドアを閉め、その場にへたりこみました。安堵のあまり、不覚にも涙がこぼれました。
 そんなふうにして思いだしたくない昨日は終わり、雨が降らない特異日を迎えました。
 今朝は、サイレンの音に苛まれる悪夢にうなされて目覚めました。
 カーテンを思いっ切り開け放ちながら、それがどんな朝だとしても、迎えられたらそれは幸せなのだと、実感しました。
 朝は、いいですね。
 いいですよ、朝は。ほんとに。
 森田さんの言うとおり、やっぱり雨は降っていないし。

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072 96.10.11 「ハッスルする世界」

 ハッスルって、あなた。いくらなんでも、そりゃあなた、ちょっとアタマ悪すぎませんか。いや、その、どうも。いいんです、いいんですけどね。無関係の私がしゃしゃりでて口を挟むこっちゃないんですけどね、まあ、その、しかし、いくらなんでも、ハッスルはなかろう、と。
 新聞の最終面を漫然と眺めてたら、いつもはまるで興味がない午前8時以降にたまたま視線が行っちゃったもので、驚愕しているわけです。
 ワイドショウって、相変わらず元気なのね。あんなくだらない番組と怒る人もいるみたいですが、くだらなくない番組は面白くないんだからしょうがないのよね。私にはどこが面白いのか永遠の謎ですけど、私は常に、自分が望まないにも関わらず少数派に属してしまう癖があるんで、私の考えは、ま、どうでもいいですね。多数派には好まれているから、放送されているんでしょう。
 「松田聖子&正輝が娘の運動会でハッスル」と語るのは日テレ。「百恵さん・聖子・手塚理美愛児の運動会でハッスルママ」と伝えるのはフジ。テレ朝は「ハッスル」は使ってないな。もちろん、TBSは「や」。
 ハッスルなあ、ハッスル。過去からの亡霊ですね。まだいたのかハッスル。スタイリスティックスの衰退とともに死に絶えたはずでは。まいったなあ。
 わしもハッスルしちゃおうかな。う。ぞぞっと全身に鳥肌。
 テレビ欄というのは字数をいかに詰めるかの勝負とかいう話ですが、日テレはなかなか不思議なアプローチです。「松田」は余計なのでは。「聖子&正輝」で充分という気はしますが、なにか深謀遠慮があるのでしょうか。もっと少ない字数で効率的に語れそうに思えますが。「聖子正輝娘の運動会でも過剰な演技」くらいでいいんじゃないかなあ。
 フジのは味わい深いですね。さん付け、呼び捨て、苗字付き、という格差の嵐。「ハッスル」に「ママ」を付け加える悪どさもいい雰囲気です。これは添削できないっすね。フジの勝ち~。
 このネタは各局ともメインらしくて、「手塚理美息子とのダンスに真田欠席」(テレ朝)とか、「愛息運動会で百恵さん絶叫」(フジ)とか、いやはや、なるほどなあ。勉強になるな~。それにつけても、「ハッスル」が似合いそうな方々ばかりですね。さすが。今日び、「ハッスル」がしっくりくる方々は珍しいですよ。来年も頑張ってください。
 更につらつら眺めていると、やっぱり共通するネタはあるみたいで、「お留守番悲し……2歳幼女が洗濯機で水死」(日テレ)とか、「母は留守・2歳幼女が洗濯機でおぼれ死ぬ」(テレ朝)とか、なんだかえらい騒ぎです。私の中にかろうじて1%ほど残っている良心は「ひとが死んで、そんなに嬉しいの?」と呟いたりもしますが、99%を占める邪心は日テレに軍配を挙げますね。「悲し……」は、いい味だしてます。こんな表現に工夫を凝らすシゴトがあるかと思うと、同情に堪えません。ハッスルせざるをえないんでしょうね、さぞかし。
 そんな中で、日テレの「サル騒動」は気になるところです。なんの説明もない。サル騒動、ただそれだけ。いったい何があったというのでしょう。サル山の政権交代劇でしょうか。よくある話です。サルが人を噛んだのでしょうか。そのサルはなにをしたというのでしょう。気になるなあ。とってもとっても気になるなあ。
 どうでもいい話題の中で、唯一異彩を放ってます。
 「サル騒動」、いったいどんな騒動だったのでしょう。

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073 96.10.12 「私もほんとはさみしがりやで」

 400万枚だか600万枚だか800万枚だか1000万枚だか、いや実は知らないもんだから適当なことを書いてるんだけど、めったやたらと売れたアルバムなんだそうである。1000万枚も売れるわけねえか、あははは。ま、売れた、と。よかったですね、安室さん。私も本日、やがて訪れるあなたの印税生活に貢献しましたですよ。
 とりあえずCD屋と私は呼んでいるのだが、昨今ではどういう呼び方が一般的なのだろう。なんとか屋は好ましくないという風潮もあるのだが、CDショップと呼べばいいのだろうか。新屋が好ましからざる人物であるのは確かだが、CD屋もそうなのであろうか。まあ、CD屋で我慢せい。そのかわり私も新ショップと名乗るのは控えるからさ。おあいこだ。
 で、CD屋に行った。目的は、安室奈美恵の『SWEET 19 BLUES』というアルバムの購入である。安室奈美恵というひとは偉人だとは思うのだが、これまで特に興味はなかった。その楽曲はよく耳にするが、とりたてて関心を持つことはなかった。ところが最近「SWEET 19 BLUES」という曲を時々耳にする。
 これはいいですね。この曲は私、気に入りました。ハヤリ歌を好きになったのは久し振りだなあ。FMでこの曲がかかるたびに注意深くアナウンスを聴取した結果、件のアルバムタイトル曲であることがわかった。
 てくてくとCD屋に赴き、レジに並んでいると、私の前にいた女子中学生が私が手にしている『SWEET 19 BLUES』に気づき、ぽかんとした顔になった。蛇腹靴下の彼女も同じ物件を所持している。
 や、少女よ、そのような物珍しそうな視線を投げかけるものではない。たしかに、君と私の年齢は甚だしく隔たっていよう。断絶もあろう。しかし少女よ、私は君よりずっと長く生きているのだが、私の人生というものはこれがまたたいへん薄っぺらい。中身がないのだ。ただ漫然と生き長らえてきたにすぎぬ。その密度において君とはなんら変わるところはない。その証拠に君と私は今、同じ嗜好を示しているではないか。
 私が寄せる共感に気づくこともなく、彼女は「へんなひとっ」という表情を露骨に見せるのであった。
 すみません。
 金を払う段になると、うら若き女性店員が近々発売される安室奈美恵オリジナルビデオというものの予約を勧めるのであった。そういや、前の彼女は予約するかどうかさんざん迷っていたような気がする。私にとってはそのようなビデオが自分の人生に関わってくるとは想像すらできなかったので、あさってのほうのポスターなどを眺めていた。中学生と店員のやりとりはまったく聞いていなかったのだ。
 いかがですか、と店員は熱心だ。
 いや、あのね、私はとりたてて安室奈美恵に興味はないの。ただ1曲が気に入ったからこのアルバムを買うのであって、べつに安室さんが歌ってなくてもかまわないと思ってるくらいなのよ。だからね、そういうビデオはいらないの。ね、察してよ、そこんとこ。この目を見ればわかるだろ。俺の目を見ろ、なんにも言うなあ。
 店員が察してくれるわけもなく、いらないんだごめんね、とつぶやく小心者の私。謝らなくてもいいのに謝っちゃう。なんでかなあ。
 買物をするのはいつでも疲れる。
 それで今、聴いているわけだが、ほんとに「SWEET 19 BLUES」以外にカネを出して聴くような曲が収録されていなかったので、ひっくり返ったところだ。まあ、アルバムとは常にそういうものだが。シングルを買えばよかったのだろうか。しょうがないので、「SWEET 19 BLUES」ただ1曲をリピートして聴いてる。
 効率悪いなあ、私の人生。

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074 96.10.22 「ぎゃふん」

 今年の四月に入社してきた香野くんはなかなかスジがいい。シゴト上での関わりはあまりないのだが、私はなるべく会話の機会を持つように努め、ことあるごとに香野くんを薫陶してきたのだ。いやその、自分で薫陶などといってはいかんか。わはは。態度でかいなオレ。
 夏の暑い盛りに外回りから帰ってくると香野くんがいたので、汗だくの私は思わず所望した。
「あ~、コウノく~ん、なんか冷たいものをくれ~」
 香野くんはシタッパなので、オチャクミを仰せつかっているのだ。
「自分で勝手に飲んでください。冷蔵庫に麦茶が入ってます」
 香野くんは、にべもない。
「なんだよ~、けち」
「いや、冷たいものを、ということなので、冷たい言葉を返してみたんですが」
 ないす~っ。薫陶の甲斐があったというものだ。先生は嬉しいぞ。
「おう、そうかそうか、そりゃいいぞ。すばらしいリアクションだ」
 いそいそと麦茶を汲みながら、誉め讃える私。ショクバにおいてシゴトより重要なものは常に存在する。ウケをとりにいかないで生きている意味があろうか。
 私は誉めて育てるタイプである。打たせて取るタイプともいう。ぜんぜん違うが、そんな細かいことを気にしているようでは、迷走する次の世紀を生き抜いていけないぞ。
 この、私の秘蔵っ子である香野くんが、最近どうも竹田さんに孤高の挑戦を企ててているようなのであった。竹田さんは夫子あるおちゃらけた女性なのだが、その軽さにおいてショクバでは一目置かれている。侮ってはならない。このひとと張り合って敗れ去った者は、私をはじめとして数知れない。
 百戦錬磨の難敵である。まだ早いのではないか。しかも、竹田さんは香野くんの直属上司だ。私は心配しながらも、一方で香野くんの奮闘に期待してもいるようであった。ふと気づくと、柱の陰から二人のやりとりを盗み見て、明子ねえちゃんと化す私がいるのであった。
「ひゅうま……」
 などと呟いて、気分を出してみたりするのであった。馬鹿かも。
 香野くんは、なぞなぞという古典的手法を用いた。
「地味な方といえば、」
「ジミー・カーター!」竹田さんは素早い。
「ですが~、」
 あ。いいのか香野くん。そんな姑息な作戦は竹田さんの思う壷だぞ。
「地味な人といえば、いったい誰でしょう?」
 今度も、竹田さんは即答した。「ジミー・ヒートン!」
 香野くんは、たちまち顔色を失った。ほら見ろ、言わんこっちゃない。
「で、香野くん、それがどうかしたの?」
「い、いや、なんでもないっす。他意はないっす……」
「タイはナイス? そ~そ~、そ~なのよう。よかったわよ、タイ。君もいちど行ってみるといいわよう」
「い、い、いや、それは、ちょっと。海外には行くなという家訓があるので」
 香野くんは最後の反撃を試みた。が、反撃など、竹田さんに通じるわけがないのだ。
「家訓?」竹田さんは、言った。「かっくん」
 香野くん、大敗であった。
「あんな手口じゃ竹田さんに勝てるわけねえだろ~」
 よろよろと戻ってきた香野くんを、私は諭した。
「イケルと思ったんですけど」
 香野くんはクチビルを噛みしめる。
「で、ジミー・ヒートンって何者?」
「そんな奴、いませんよ。架空の人物です。竹田さんもオレと同じ発想をしたんですよっ」
「ゑ?」
 ううむ。香野くんも高度なテクニックを使えるようになったものだ。居もしない人物を解答にして、それを押し通そうとは。暴挙すれすれの高等戦術だ。
 しかし、竹田さんはその上を行くのであった。
「おそるべし、竹田弘子!」
 我々は天を見上げ、嘆息するのであった。
 その後も、香野くんはことあるごとに竹田さんにタタカイを挑み、その度に軽くあしらわれていたようであった。二人と私は業務がかち合うことがないので、詳細は知らない。時折、香野くんから敗北の弁を聞くのみであった。
 いつの日か、竹田さんをぎゃふんと言わせて見せますよ。香野くんは、拳を握り締めて、そう誓うのであった。
 ぎゃふん、なあ。その言葉、どこから発掘してきたんだろう。
 私は、前途有望な青年の人生を誤らせてしまったのかもしれない。反省はしないのだが。
 本日、竹田香野両名は渋谷方面へ出かけていったらしい。聞けば、「行楽のお供に」と、竹田さんが香野くんを指名したようであった。ああ、またもや竹田さんの術中にはまるのか、香野くんよ。
 夕刻、帰社した両名の姿を見て、竹田さんが香野くんを指名した訳が明らかとなった。香野くんは、竹田さんのうしろでひ~こら言いながら、重そうなダンボール箱を抱えている。つまるところ、荷物持ちなのであった。
「参りましたよ~」
 こっそり報告に来た香野くんによると、またまた敗北を喫したらしい。その概要を聞いて、私は涙した。
 出先で両名の間にタイムラグが生じ、渋谷駅で待ち合わせをすることになった。イナカモノのフォーマットに則って、ハチ公前。先に現れたのは香野くんで、手持ち無沙汰にハチ公を眺めていた。律儀なハチ公の姿になにか胸を打たれるものがあったのか、そのうちに香野くんは歌いだした。ばんばひろふみ「Sachiko」の替え歌。
「ハチ公~、思いどおりに、ハチ公~、生きてごらん~」
 意外に大きな声で歌ってしまったらしく、周囲の方々にはウケたらしい。香野くんは気を良くして、なおも作詞家生活に突入しようとした。
 しかし、現れたのだ。いつのまにか登場した竹田さんは、群衆の耳目を香野くんからかっさらってしまったのだ。
「ハっちゃんはね、ハチ公っていうんだ、ほんとはね、だけど犬だから、自分のことハっちゃんって呼ぶんだよ、おかしいね、ハっちゃん」
 竹田さんの方がウケたらしい。替え歌の出来は香野くんの方が、数段、上だ。しかし、笑いを取るということはネタの出来に依存しないことを香野くんは知るべきであった。きっと、竹田さんは香野くんより大きな声で歌ったであろう。なんのてらいもなく歌ったであろう。竹田さんはそれができるひとだ。笑いとは、その場の雰囲気を的確に捉えて即応できる者の身に与えられる栄冠だ。香野くんは、そもそも、そのへんの呼吸を、まだ心得ていなかった。
「悔しいっすよ、オレ」
 香野くんは、述懐するのであった。
 私としても、慰めるすべもない。そういった呼吸を察知する能力において、私は竹田さんには敵わない。
「まだまだ修行が足りないな、オレたち」
「まだ、駄目ですかね」
「ああ。まだ、駄目だ」
 私と香野くんは、お互いを慰め合うのであった。
「これ、食べない~?」
 屈辱にまみれた我々のもとに、竹田さんがやってきた。
「さっき、取引先のひとにもらってきたの。そお、あれよ。ピータン。卵よ、卵。鳥の赤ちゃんよ~」
 赤ちゃんとは、これまた突飛な言い草だ、と、思っていたら、それはギャグの伏線であった。
「これはね、香野くんが運んできてくれたものなのよ」
 あ。もらえるものがわかっていて、わざわざ香野くんを連れていきやがったな。ストーリイを書いてから出かけたに違いない。私は、呆れた。そこまでして、ギャグを言いたいか竹田。
 負けた、と、思った。香野くんの顔色を見やると、彼の心中も同様であるようだった。
 私は、内心でそっと呟いた。
 ぎゃふん。

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075 96.10.27 「袋小路で吊るし上げ」

 ポリ袋が話題となった。スーパーでくれるポリ袋である。こういった日常生活にへばりついた矮小な話題に取り込まてしまう環境というのもなにやら物悲しいが、まあ身から出た錆といったようなものか。わさびが出てこないだけマシであろう。身からわさびが出てきたら、毎日涙をこらえながら過ごさねばならぬ。
 スーパーのレジ担当者は、なにゆえに多めにポリ袋を渡すのであろう。一袋で済む買物には二袋くれる、二袋で済む買物には三袋くれる。たいがい、一袋あまってしまう。こちらとしては他に使い途があるから別に構わないが、資源の無駄遣いではないだろうか。と、いうのが私の論旨である。疑義を呈し、経験豊富な諸賢の御感想をお伺いしようというものであった。
 その場にいた諸賢とは、おおむね兼業主婦であった。三時のお茶の時間にふとシゴトの手を休めてしばらく雑談に打ち興じようではないか、というような極めてだらけきった状況である。
 私は、たちまち反論の集中放火を浴びることとなった。
「そんなはずはない」
「私はいつも足りない。二袋必要なのに、一袋しかくれない」
「私もそうである。だいたい、レジの女の子はケチな子ばかりだ」
「そのとおり。私は、いつも余分に請求している。面倒だ」
 はあ、そうなんですか。
「あなたはレジ係の子に色目を使っているのではないか。だから、余分にもらえるのであろう」
 意表をつく見解が提示された。そんな馬鹿な。別にポリ袋なんて余分に欲しくはないですよ。だいたい、私が色目を使ったとして、効果あると思いますか。ないですよ。
「それもそうである」
 一同は、深くうなずいた。え~ん。私は、深く傷ついた。
 くそう。私は反撃を試みた。思うに、あなた方の収納能力に欠陥があるのではないですか。レジ係は永年の経験によって適正な数のポリ袋を配布している。しかしながら、あなた方はポリ袋が提供する容量を有効に使っていないために、結果的にポリ袋の不足という予期せざる結果を招く。そういうことではないでしょうか。
 私は、またまた反論の集中放火を浴びた。
「そんなはずはない」
「それは言いがかりである。スーパーとともに生きてきた私の半生を否定するというのか」
「あなたのような、ぽっと出のひよっ子に、私のスーパー人生を忖度されるのは心外だ」
「だいたい、袋詰めのなんたるかについて、いったいあなたになにがわかるというのか」
 あ、いや、その、すみません。失言でございました。
 諸賢の反論は、やがて私への攻撃へと転じた。
「あなたがさもしい顔で突っ立っているから、レジ係は憐憫を催すのではないか」
「あなたの人相風体が哀れを誘うに違いない」
「意図的だとすれば、あまりにみみっちい手口で不愉快だ」
「あなたは、レジ係が思わず一袋多く渡さざるを得ないような見すぼらしい恰好で、買物に行くのではないか」
 そんな無茶な。レジ係のひとは客の恰好なんかいちいち気にしないと思うなあ。菅原洋一さんも歌っているではないですか。
 私は歌った。「あ~なたの恰好など~、知~り~たくな~いの~」
 ぜんぜんウケず、私の繊細な心はまた傷ついた。
「そういう、ひとに媚びを売る態度がけしからん」
「性根の卑しさが知れるというものだ」
「あなたの心底に潜むそういった物乞いの精神が、レジ係の惻隠の情を喚起するのであろう」
「自己批判しなさい」
 さんざんな言われようである。とうとう吊るし上げとなってしまった。なぜ人格まで攻撃されねばならぬのか。
 私は矛先を変えようと、前々から気になっていた仮説を開陳した。思えば、女性のレジ係からの施しが多いように思われる。男性の場合は、適正量の配布しかしないようである。ひょっとして私は母性本能をくすぐるタイプなのでは。
「馬鹿者」
「うぬぼれるな」
「たいがいにしなさい」
「この、たわけ者めが」
 かくして、私の心は、またまた深く傷ついていくのであった。

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076 96.10.28 「カイワレ大根ありき」

 先頃の新聞報道によると、農水省がカイワレ大根生産に関する衛生管理の新基準を策定したのだそうで、適合製品には認証マークとやらがつくのだそうだ。なにやってんだか。そんなマークに振り回される私ではないぞ。
 その後、カイワレ大根中毒は更に進行し、もはや取り返しのつかない状況に陥っている。寝ても覚めてもカイワレ大根のことしか考えられない。
 たとえば、昨日はこんな調子だった。道端の雑草がカイワレ大根に見えて仕方がない。「いかんいかん、あれは雑草だぞ雑草。摘むなよ摘んじゃだめだからな」言い聞かせていたはずのに、ふと気づけば路傍にうずくまりオオイヌノフグリなどを手折っている。はっ、と我に帰り立ち上がろうとしたら、通行人の邪魔となっていたらしく怒鳴られてしまう。「なにしとんかい、われ」大阪は河内出身の方であろうか。私は謝罪する前にその言葉尻を捉えてしまう。「え。かいわれ? どこどこ?」辺りをきょろきょろしてしまうありさまだ。
 五感を通して取り込まれる事象のすべてが不毛な連想を呼び起こし、カイワレ大根へと収斂していくのであった。熱に浮かされている。鏡の中の自分に向かって「私、恋をしているのかしら?」などと、ふと呟いてしまう秋の夜なのであった。馬鹿まるだし。ろくな死に方はしないだろう。
 幸いなことに、もはや入手は簡単。禁断症状に悶え苦しむことはない。どこのスーパーでも売っている。大量に購入して快適なカイワレ生活を満喫する毎日だ。あらゆる料理にカイワレ大根をぶち込んでしまう。載せてしまう。添えてしまう。現在のところまで、カイワレ大根が合わない料理はない。まずカイワレ大根ありき、で献立を考えるからだ。いかに偏食かが露呈してしまうが。食べきれない分は、水盤に水を張って鑑賞している。ほおっておくと横方向へ広がって生長し、いささか面倒なことになるので、あまりお勧めできない。
 目下の問題点は、スーパーの商品配置基本計画に注がれている。なぜスーパーは一種類のカイワレ大根しか置かないのか。その流通戦略においていろいろと思惑はあるのだろうが、やはり消費者に選択の自由を与えていただきたい。カイワレ大根生産者にもいろいろあって、それぞれに微妙に異なる味わいや歯触りがある。今のところ私のお気に入りは、三和農林株式会社の「かいわれちゃん」だ。抑えた辛さと程よいシャッキリ感が絶妙のハーモニーを奏でる逸品といえよう。
 とりあえずスーパーは精肉を売るのをやめて、そのぶん野菜売場を拡張するのがよいのではないだろうか。私はちっとも困らないので、ぜひ英断していただきたい。カイワレ大根だけではなく野菜全体のことを考えているのだ。私も大人になったものである。
 疲れてきた。偏食が祟っているのか、最近めっきり体力が衰えてしまった。ひとっ風呂あびて、寝ることにしよう。
 もちろん、カイワレ風呂である。

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077 96.10.30 「されどカレー」

 その昔、ライスが多けりゃライスカレー、カレーが多けりゃカレーライス。って、コピーがありました。
 一方、カレーがごはんの上に載っているのがカレーライス、ごはんがカレーの上に載っているのがライスカレー、という誰もが耳にした冗談もありました。
 更には、カレーを全面にかけるか半面にかけるか、といった論議もありました。
 つけあわせには何が相応しいか、我々は無批判に福神漬けを信奉してはいまいか。そういった討議も、しばしば耳にするところです。
 ソースをかけるか醤油をかけるか、マヨネーズや卵もイケルよ。などという論戦も尽きません。
 専門店のX倍カレーの根拠はなにか。肉の選択はいかにあるべきか。そもそも、肉が必要か。具の選択に美学はあるか。タマネギ信仰の是非はどうか。市販のルウを使用するのは恥ずべきか。ターメリックは本当に必要なのか。ごはんは邪道でナンを用意するべきなのか。小麦粉カレーは本邦に何をもたらしたか。カレーうどんは許せるがカレーラーメンは許せないのではないか。カレーとごはんをぐちゃぐちゃに混ぜるのは恥ずべきことか。レトルトパックの功罪とはなにか。よそのウチのカレーはどうしてうまいのか。キャンプといえばなぜカレーなのか。子供がカレーを好きだというのは幻想ではないか。チャダは今どうしているか。
 などなど。などなどなどっ。
 カレーは論議を呼ぶものです。カレーについて一家言ない人はいないのではないか、そんな気もします。論議の大半は水掛け論で、要するに各人それぞれ好きなカレーを好きなように食ってりゃいいんですが、まあそこはそれ、そういう愚にもつかない論議を戦わせるのは、そりゃあなた、楽しいじゃないですか。
 もはや私達に、カレーのない生活は考えられません。ま、そんなことを考えたことのない人ばかりだったりしますが。あ、考えてはいけません。さみしくなっちゃうよ。
 さて、ここにまたひとり、カレー論議に新風を巻き起こした傑物がいます。ここでは仮に彼を杉田玄白さんとしますが、杉田玄白さんは思いも寄らない見地からカレーについて熱く語るのでした。杉田玄白さんは、カレーを食する状況の、それも終盤戦に着目しています。慧眼といえましょう。
 カレーを食べていますね。だんだん皿の上のカレー及びごはんの量が少なくなってきます。そのときのごはんとカレーの比率について、杉田玄白さんは思考するのでした。カレーが余る人とごはんが余る人、あるいはカレーが足りない人とごはんが足りない人。まあどっちでもいいんですが、人はこの二種に分けてしかるべきと杉田玄白さんは力説します。諦念が刻み込まれた眉間の皺を心持ちほころばせながら、杉田玄白さんは自説を滔々と語るのでした。
 杉田玄白さんは、ごはんが足りなくなるタイプであったと自らの過去を告白しています。しかし、昨今はカレーが足りなくなりつつある、自らの人生観が変容しつつあるためであろう、とも述懐しています。不惑を迎えた杉田玄白さん、通り過ぎていく時間に微かに抗いながら、冷静に自らのカレーライスを見つめているのでした。
 そうなんでしょうか。ふつう、途中で無意識に調整してカレーとごはんはほぼ同時に食べ終わるもんじゃないのかなあ。おかずとごはんの配分制御は、誰もが身につけている習性ではなかったのでしょうか。
 杉田玄白さん、相当無器用かもしれません。ああ、このペースで食べてるとカレーが足りないな、なんて、食べてる最中に考えないのでしょうか。ずいぶん不思議な人です。北条氏政タイプといえましょうか。
 カレー。こんなに私達の生活に密着しながら、まだ異邦人扱いです。カレーパン、カレーまん、カレースパゲティ。外様に外様を掛け合わせておきながら、まだ私達は知らんぷりです。
 私達は、まだカレーの真髄を理解できていないんでしょうね、きっと。
 ママの味、までは辿り着いています。
 あと一歩。あと一歩で、おふくろの味です。
 論議を呼ばなくなったその日こそ、私達がカレーと一体化する日なんでしょう。
 その日を待ちながら、杉田玄白さんと私は、縁側でカレーライスを食べながら愚にもつかない論議を戦わせて遊んでいることにしましょうか。
 たかがカレー、されどカレー。なんて、つぶやきながら。

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078 96.11.06 「塩分とコレステロールと」

 人生は感動の連続で、いやあ、一度やったらこりゃもうやめられませんな。
 って、いきなりなにを言ってんだか。わははは。だって、馬鹿なんだもん。いや、みなさん、聞いてください。不肖わたくし、こないだから感動しております。感動はいいもんですね。ごほんごほん、って、そりゃ感冒。すみません、ありあまる感動のために、精神が紅葉しております。照る山もみじな昨今の私。
 塩辛というものが私を感動させてやみません。塩辛にもいろいろありますが、塩辛の王道を歩んで幾年月、塩辛界の大横綱としてその名も誉れ高い「いかの塩辛」が、感動の嵐を巻き起こしているのでした。
 いやあ、こんなに簡単にできるもんだとは思わなかったなあ。驚きましたよ。塩しか使わないの。いかの他には。知らなかったなあ。レシピを見たときには信じられませんでした。いかと塩だけ。さすせその出番がないばかりか、みりんも酒も化学調味料も香辛料も登場しません。嘘だろ、と、ほっぺたをつねってみましたが、今時そんなことする人は珍しいですかね。ごめんよ。古い奴ほど、ほっぺたをつねりたがるもんでございます。
 そんで、ま、つくりました。いかと塩しか使わないくせに、けっこうめんどくさかったけど。細心の注意を払って内臓を取り出し、悪戦苦闘して皮をむきました。そりゃもう、大騒ぎさ。解体作業を終わった頃には、すっかりイカくさくなってしまいましたよ。
 ワタ袋と胴体が、塩の援軍を受けてやがて塩辛になっていくわけですが、しばしピチットに包まれて冷蔵庫の中で休んでいてもらいましょう。ピチットがなんなのかわからない人は手近な主婦に訊いてみるように。ただし、手近だからといって、むやみに手をつけてはいけません。むやみでなけりゃ、いいです。
 足とミミと若干の内臓が残されました。足とミミは適当にぶった切って、スミと醤油とみりんを混ぜて漬け込んでおきました。どうなるのかわかりません。刺身用と称して販売されていたので、早めに食べればばあまりひどいことにはなるまい。明日は明日のいかがある。
 いやはや、いかって捨てるとこがないのね。あ、待て待て、目玉は捨てたな。
 怖いよね、いかの目玉。なんであんなに怖いんだろう。睨んでるんだよね。やな感じ。そんなに睨むなよぉ、いかのくせにぃ。
 疑問も浮かんできました。私がさばいたいかは何者だったんでしょう。モウゴウイカとかホタルイカとかダイオウイカとかブンメイカイカとかバラライカとか、いろいろあると思うんですが、はて、なんだったのでしょう。そのへんのスーパーでパック詰めされてたのをなんの思慮もなく購入してきたので、サシミヨウイカとしか言いようがありません。塩辛に適したいかの種族はきっとあると思うんですが、そのへん、どうなっているのでしょう。
 などと思い悩んでいるうちに時は流れ、レシピ所定の三時間が過ぎました。ピチットによって余分な水分を絞り出されたいかの胴体とワタに塩を混ぜつつ撹拌します。ううむ。これ、なんとかなるんだろうか。どうしようもない感じがするけどなあ。完全な失敗作ではっ。タッパーに入れて冷蔵庫にしまいこみ、途方に暮れつつ眠る。ぐうぐう。
 一夜明けて、おそるおそるタッパーをのぞくと、おお、塩辛っぽい状況になりつつあるではありませんか。時の流れはすべてを解決するなあ。うむうむ。かき混ぜて、またしまう。醤油漬けのほうは、まずまず食えないこともなかったので、むさぼり食って、寝る。また一晩。タッパーを開けて、かき混ぜる。もはやまごうかたなき塩辛状態。んで、寝る。
 四日目。日本酒を購入し、帰宅。いそいそと塩辛を取り出し、いそいそと酒をぐい呑みに注ぎ、いそいそと食べましたよ私は。
 んまいじゃないですか。
 こりゃもう、んまい。
 酒もまた、んまいです。
 防腐剤だのなんだのが混入した塩辛とは今日を境にお別れです。もう、買いません。ええ、買いませんとも。あんなのは、ウソッパチです。いかと塩だけで、塩辛はできるんです。しかも、ぜんぜん味が違うんです。格段の差です。私は、感動しました。涙がこぼれました。
 以来、病みつき。すでに三度ほどつくりました。すぐになくなっちゃうんで、すかさずつくってしまうのです。ぜんぜん失敗しません。いいかげんにつくっても、んまいのができちゃうんです。なんということでしょう。感動的です。ついつい、呑みすぎてしまう昨今です。
 しかし、いかはコレステロールのカタマリだし、塩分も多いしなあ。身体に悪いよ、ほんとにもう。
 ましてや、深酒にいたっては。

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079 96.11.14 「おむすびころりん」

 止めどなく湧き上がる怒りを禁じ得ない。滾るアドレナリン、迸る血潮、集めて速し最上川である。全身全霊で怒っちゃっているのである。ぷんぷん。
 発端は、おにぎりの落下であった。私が食べようとしていたおにぎりが、私の手を離れ、こともあろうにクズカゴの中に落ちたのである。なんであろうが、支えていないと堕ちていくのである。クズカゴに入った以上は、もはやおにぎりではない。クズである。実際に、クズにまみれてしまったのである。葛ではない。屑である。葛きりは食えるが、屑きりは食えないのである。一瞬のうちにおにぎりは、食えない奴となってしまったのである。クズにまみれたら、クズに交わってしまうのである。クズはクズより出でてクズより清し、とはならない。
 クズ100人に聞きました、となるとすかさず参加しているほど、私は人間のクズだが、クズを食する趣味はないのである。クズでノロマなカメにも、矜持はある。クズカゴの中に落ちたおにぎりを取り出しては食べられない。いつかできるようになるかもしれないが、まだ私は幼く、そこまでは達観できない。
 私の手には透明な包装が残された。私は某コンビニエンスストアで購入したおにぎりを食するべく、その包装を躍起になって解いていたのである。どう脱がせてよいかわからず、悪戦苦闘していたのである。三角の頂点から中心線を下方へ伸びている赤テープを一気に引き下ろし底部を横切り裏側を上方へ駆け上がり包装を二分割する。しかるのちに、両下端を左右に引き剥がすつもりでいたのである。ところが、そういう安穏な事態ではなかった。故なき思い込みは身を滅ぼすのである。
 見慣れた箇所に存在しない赤テープを探しあぐねて困惑していた私は、ふとした偶然から、底面を縦断する赤テープの存在を発見するに至った。ずるい。それはないのである。背中をまさぐりながら当惑していたら実はフロントホックだったりするとたいへん狼狽するが、そのような衝撃に見舞われたのである。私は、赤面するに至った。うろたえてしまったのがよくなかったのかもしれない。あわてて開封したところ、手元が狂った。
 蜘蛛の糸は切れ、おにぎりは落ちていった。
 受験生の方には申し訳ないが、落ちるときは落ちるのである。落ちるときは簡単に、それはもうあっけなく落ちる。落ちていくのも幸せだよと、などと歌う間もなく落ちていくのである。
 そのようにして、私の怒りは惹起されたのである。むろん、私は自分の不手際を責めたりはしない。当然である。自分はかわいい。責められるべきは、おにぎりの包装形態を統一しようとしない魯鈍な業界なのである。
 なぜ、開封方式を統一しないのか。上から開いたり底から開いたり斜めから開いたり内側から開いたり、わかりにくいったらないのである。
 私は、断固として主張したい。今回の悲劇は、消費者を無視したおにぎり業界の過当競争が生み出した不可避の人災である。フカヒレのチンゲンサイである。その無法を看過したコンビニ業界の責任もまた重いといえよう。
 私としては、損害賠償を求めて告訴も辞さない構えである。告訴、猫を噛むのである。110円を賠償していただきたい。慰謝料などいらぬ。食されるために製造された商品が、食されなかった。ただその損失を補償していただきたい。110円は私にとって切実きわまりない大金である。ただいま、最良の方策を模索して弁護団と鋭意協議中である。
 問題は、隣家の犬のジュリエット、泣き虫の小学生勘太郎、窓際で枯れそうなポトスなどで構成される弁護団そのものであるかもしれないが。

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080 96.11.21 「野暮」

 柿ピー、と、とりあえず呼称しましょうか。「品名」ってことになると、各社、「柿の種&ピーナッツ」とか「ピー&柿」とか、商標戦線に敗れた呼び名があるんですけど。要するに、柿の種とピーナッツが入り交じったあのオツマミですね。カワキモノの王道を行く、例のアレです。
 一方ここに、もちろん仮名ですが杉田玄白さんという人物がいます。杉田玄白さんは、柿の種とピーナッツの適性比率について熱く語るのでした。5対1が不惑を迎えた杉田玄白さんの理想値です。よもや間違える方はいないと思いますが、5が柿の種です。当り前です。柿の種の比率が多くない柿ピーのことはここでは考えません。ピーナッツのほうが多い魯鈍な柿ピーには、破防法を適用して、いったいこの世の正義とはなんなのかをこき知らしめてやっていただきたいと思います。
 杉田玄白さんもチカゴロノワカイモンに対してお怒りです。2対3くらいがよいのではないか、そのような物事の本質をわきまえない愚鈍な見解をあっけらかんと吐露して悪びれない不逞の輩が、温厚な杉田玄白さんの苛立ちを掻き立てているというのです。問題です。許せません。私としても怒りを禁じ得ません。坊や、いったい何を教わってきたの、と凄んでみたい所存です。私だって私だって、疲れるわ。
 松方弘樹はピーナッツばかり食べて菅原文太にたしなめられていましたが、当然です。ピーナッツはあくまでおまけなのです。カード欲しさに仮面ライダースナックを購入して食べずにドブに捨てるのは人の道に背く行為です。って、同世代の人にしか通用しないタトエなんかしてますが。
 そのようにして、杉田玄白さんと私はひとしきり亡国の徒の行く末を嘆いたわけです。しかしドライ論争という問題で、杉田玄白さんと私は鋭く対立するのでした。
 ドライマティーニというカクテルにおけるあの論争と同質の問題が、意表をついて柿ピーにおいて杉田玄白さんと私の間で再燃したのです。
 件の論争は未だに決着していない模様で、今のところベルモットの瓶を眺めながらストレートのジンを飲んでいたチャーチルが最もドライなマティーニを飲んだということになってます。このあとに、ベルモットを思い浮かべながらストレートのジンを飲んだ人のマティーニが最もドライであるという論が出現するわけですが、いかにも作り話めいていて今ひとつインパクトがありません。
 まあチャーチルのことはどうでもよくて、柿ピーです。杉田玄白さんも私も、ドライ柿ピーを嗜好してはいます。しかしいくらなんでもピーナッツを眺めながら柿の種をむさぼり食ったら、それはやってはみたいけどやっぱり単なる馬鹿なので、とりあえず比率論争に花を咲かせたわけです。
 私の主張は3対1です。ウェット派といえましょうか。やっぱりある程度のピーナッツは混ざっていてほしいものです。けれども、ドライ派の杉田玄白さんは5対1の線を譲りません。論争は白熱しました。一時はお互いの胸ぐらを掴み合い、「表へ出ろ」といった発言も噴出するという迫真の場面も迎えました。
 実際のところは、柿ピーごときでなにを熱くなっているのだという周囲の声に、杉田玄白さんも私も白けてしまったという顛末ですが。
 核心を尊重するひとにはかないません。
 杉田玄白さんも私も遊んでるんだからさ、水を差さないでよ、もうっ。
 仲裁に入ったつもりの人は、間をとって4対1ではどうかと言っています。
 どっと疲れた杉田玄白さんと私は、お互いに目くばせしながら、内心呆れ果ててその仲裁案に同意しました。
 つもりの人は、もちろんその目くばせには気づきません。気づくようだったら、割って入ってはこないから。
 立派な意見を吐いているつもりの人には、困っちゃいますね。ほんとにもう。
 最後に声を大にして言っておきますが、柿ピーの適正比率は3対1です。
 決まってるじゃないですか。

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