228 99.06.23 「ありません」

 昼飯時に、とある役所の食堂において、そのおとーさんは私の前に出現したのであった。
 食券を求めて自動販売機の列に並んだ。たまたま私の前にいたのが、そのおとーさんであった。私にとっては、そのおとーさんは縁もゆかりもない。そういう位置付けのおとーさんである。同じ列に居並んで、今ささやかな縁が生じたが、それだけのことである。私とおとーさんとの間になんらかの関係があるとするならば、それは単なる偶然がもたらしたものに過ぎない。
 おとーさんは、壁の黒板を眺めていた。本日の日替わり定食のラインナップを伝える黒板である。A定食が鶏の唐揚げ定食であり、B定食がアジフライ定食である、と、本日はそのような展開を見せていた。更なるC定食の欄も設けられていたが、厨房サイドにも色々と都合があるのだろう、「ありません」とのことであった。ごめんね、今日はBまでにしてね、というのが、厨房サイドの本日の日替わり定食に関する公式見解のようであった。
「ありません、って、食ってみたいね」
 ぼそりと、おとーさんがつぶやいた。ま、ありがちな軽口である。日常生活の潤滑油、といったところであろう。こういう他愛ない軽口を重ねて、私達は単調な日々を当たり障りなくやり過ごしていくのである。例えばそれは、「食券乱用」といった物言いと同様の、よくある戯れ言である。
 が、おとーさんの発言に反応する者はなかった。私は、おとーさんの更に前にいたお兄さんに向けられた発言と解釈していた。おとーさんのためらいがちな小声を耳にしたと思われるのは、私とお兄さんだけである。この種の軽口は、旧知になされるべきものであろう。互いに打ち解けた間柄においてのみ許される「ユーモア」といった類の発言であろう。私がおとーさんと初対面である以上、おとーさんはお兄さんに向けて語った、と、私はそう考えたのであった。
「ありません、って、食ってみたいね」
 おとーさんは、更に言い募るのであった。こらこら、お兄さんよ、相手をしてやればぁ。「そうですねぇ。食ってみたいですねぇ」とかなんとか、あからさまにおざなりな口調でも構わないから、ちっとは反応してあげたらぁ。あんたの上司だろ。いくらタワゴトだからといって、なにも黙殺しなくても。そりゃまあ、このおとーさんは、いつもいつもこういうしょうもないことをなべつまくなしにほざいているのかもしれないけどさぁ。おとーさんは、気の利いたことを思いついた、と思い込んでるんだからさ。適当に相づち打ってあげればぁ。そのように、私は考えた。
 が、お兄さんはおとーさんの関係者ではなかったのである。私は驚愕した。お兄さんは、A定食の食券を購入して、さっさと去っていくのであった。おとーさんも、意に介さない。お兄さんとおとーさんの間にはなんらの関係もなかったらしいのである。その上おとーさんは、あろうかとか、まだ言ってるのである。だんだん確信に満ちた口調になっているのである。
「ありません、って、食ってみたいね」
 あまつさえ、私に向かって「にっ」と笑いかけるのである。
 ゑ? なに? オレ? オレに言ってんの? おとーさん、さっきから、オレに話しかけてたの? あ。それは、その、なんだ。
 いやん。それはもう、やだやだ。
 私は硬直した。
 つ、つまんないんだけど。そ、その戯れ言。
 ようやく語りかけた相手に認識されたと理解したおとーさんは、なにかしら自信に満ちた仕草で券売機の「C定食」のボタンを押し、そうして明らかに私ひとりに向かってにこにこと笑いかけるのであった。
「食ってみたいよね、ありません、を」
 い、いや、そんなことはありません。私は硬直するのみである。
 おとーさんは、なおも「C定食」のボタンを押した。当然のことながら、食券は発行されない。
「ありません、は、ありませんでしたー」
 晴れやかな声音で、おとーさんは私に語りかけた。もはや、付近数メートルに届かんという声量であり、私は床に視線を落とし「オレはこのひととはなんの関係もないんだ」と、背中で精一杯、良識ある世間に語りかけるのみであった。
 なんでオレに? どうしてオレにそんなこと言うの? オレは、たぬきうどんを食おうと思ってただけなのに。
 そんでもって、なんでたぬきうどんの食券を買うわけ? おとーさんよ。
 ありません。そういうのって、よくないです。ええ。よくありません。
 ありません、とも。

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