227 99.05.31 「それは夕立のように」

 それはいつも、いきなりやって来る。
 やって来て、目の前を通り過ぎる。あっというまに駈け抜けていく。
 他人の色恋沙汰その名も修羅場篇というやつだ。私のもとにはなぜか訪れないのだが、どうも世間の人々には、そういうものが意外な頻度でやって来るらしい。世間のみなさんもたいへんだ。
 本件に関しては私は暇を持て余しているのだが、世間の人々にとってはどうやらそうでもないらしい。色々あるらしい。たとえば、常磐線快速の車両において、スーツをよれよれにして、声高に己の恋心を連綿とまくしたてる男というのが、それだ。一見して、ぼこぼこに殴られてしまったのが容易に看て取れる。二十代半ばといったところか、彼はひん曲がった眼鏡を意に介さず、浮かれたように言い募るのであった。
「このひとは、暖かいものを、柔らかいものを、安らげるものを」彼は息をついた。「俺が必要なものを」はぁはぁ、と、苦しそうである。「ぜんぶ、くれるんだ」ぜぃぜぃ、と、死にそうである。「俺にはこのひとしかいないんだ」もはや、倒れそうである。「わかったか」と、きっぱり言ったが、やっぱりへなへなと崩折れた。
 おいおい。しっかりしろ。
 隅のシートに腰掛けていた私は、眼前の男の振舞いに茫然となった。茫然の原因の半分は睡魔によるものであった。睡眠の神様に、私は絡めとられていたのである。ふと目覚めたら、目の前によれよれ男がいて、自らの熱情をほとばしらせているのであった。
 どうなっておるのだ。私が乗ったのは、遊び疲れ酔い疲れ仕事に疲れた人々が家路を目指すいつもの終電だったはずだ。寝不足だった私は、座席に座り込むや否や眠りに落ちた。眠くてたまらなかった。それが、ふとした拍子に目覚めてみれば、目の前には修羅場があった。電車は深夜の関東平野を北東に疾走中である。
 目をぱちくりさせて事態の把握に努めたところ、自分が特異な位置に存在しているのがわかった。私はその車両の片隅にいた。シートに座って眠り呆けていた。周囲の座席には誰も座っていない。乗り込んだときには周囲にはかなりの乗客がいたはずだが、みんな避難してしまったようであった。寝惚けた視線を巡らせると、車両のこちら側だけががらがらで、反対側が混んでいる。熟睡した私だけが取り残されたらしい。
 避難の原因は明らかで、大立ち回りが演じられたもののようであった。その一方の主役は、よれよれ男である。もう一方の主役は、よれよれ男の視線の先にいた。勝ち誇ったようにたたずんでいる。見るからに、法令の遵守ということになんらの意味を見出さない職業に就いているのが明らかな男であった。このヤとよれよれ男が、どうやら格闘の儀に及んだらしい。まわりにいた乗客はみんな君子だったらしく、危うきからは遠去かった。君子になるにはかなり難のある私だけが、すぐ傍で繰り広げられた格闘に気づきもせずに、眠り呆けていたという展開なのであった。
 いまひとつ覚醒には至らない私にも、格闘を惹起した存在は明白だった。怯えた瞳を見開いてヤに寄り添うようにたたずむ長い髪の女性である。いやあ、やっぱりこういうときに出てくる女性は、髪が長いのであるなあ。定番だなあ。お約束だなあ。などと、寝惚け頭で感心する私なのであった。
 三角関係といったものであろうか。どうもよれよれ男が一方的に勘違いしているようでもあるが、しかしまあ、目の前でそこまで言われちゃ、すこしはほだされるだろう。と思いきや、彼女はいっこうに意に介さないのであった。彼女にとってよれよれ男はストーカーにも等しい存在であったのかもしれない。ヤの背に隠れて怯えるばかりの長い髪なのであった。
 なんだか私は、とんでもないものをかぶりつきで目撃しているようである。この情況に至る経緯は、いったいどんなものであったのであろうか。惜しかった。眠りこけている場合ではなかった。
 このあとは、どうなるのか。いかなる展開が三者の間で繰り広げれるのか。興味は尽きない。はずだったが、尽きた。そこでまた、私はことりと眠ってしまったのである。もったいない話である。もったいないが、眠かったのだから仕方がない。どういうものか、眠っても、眠っても、まだ眠い。そんな日々が続いていた。睡魔がどこかしら妙だったせいなのか、埋もれていた記憶が夢というかたちをとって甦った。この類の修羅場に遭遇するのは、実は初めてではなかったのである。三度目であった。
 そのとき私は中学生だった。駅前でバスを待っていたのだと思う。人通りは多かった。衆人環境の中、中年のもつれた三角関係は夕立のようにやって来て、あっというまに消えていった。女が男にひきずられていた。実際には腕をつかまれていた程度のことなのだろうが、私的記憶においてはひきずられていたのである。ここにもよれよれ男は登場した。ぼこぼこ状態であることはいうまでもない。よろめきながら、先を行く二人を追いかけていた。「きみぃ、それは僕の妻だよ」と叫びながら。
 どうにも似たような構図である。二度目もさして変わり映えしない。たしか十年ほど前のことで、どこかの海水浴場が舞台だった。このときのよれよれ男は、破れた海パンを押さえながら内股で追いすがっていたはずである。
 三度が多いのか少ないのかはわからないが、なにゆえに同じような修羅場に出くわしてしまうのであろう。居合わせた人々の耳目を集めずにはおかない激しい場面に遭遇してしまうのであろう。三角関係を呼び起こしやすい体質なのであろうか。
 あのような立場に置かれると、どういう心境になるのだろう。世間の視線をどのように感じるのだろう。それとも、起こっている事件に忙殺されてそんなゆとりはないのか。謎である。
 終点の駅で、駅員に揺り起こされた。既に、三人の姿はなかった。またしても、修羅場は瞬く間に通り過ぎていった。
 眼鏡が落ちていた。レンズは砕け、フレームが折れ曲がっている。もはや修復のしようもない。あのあと、いったいどうなったのだろう。
 なにかを暗示しているのだろうか。たとえば、次に床に落ちてそうなるのは私の眼鏡である、とか。
 そんなのも、ちょっと悪くない。

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