225 99.05.13 「決めつけられた誕生」

 誰かがどこかで思わぬことを決めているのが、この世の中である。
 どうやら、誕生花というものがあるらしい。誕生石が月に設定されるのに対し、一年366日、すべての日に割り当てられているのがウリであるようである。いろいろあるらしいが、私のあたった文献によれば、一月三日は誕生花は福寿草であり、五月二十六日はわさびだという。私の誕生日の誕生花は「キウイ」である。花言葉は「ひょうきん」。
 キウイときたか。なにが哀しゅうてキウイ。花は咲けど、つまりは食いもんだろうそれは。どうなっているのだ。かすみ草の花束を抱えてあどけなく微笑む私の可憐な姿を無視するというのか。乱れ咲くスイートピーに囲まれて真珠色の涙を流す私のしどけない艶姿を黙殺するというのか。
 するわな、そりゃ。ひょうきんだしなー。
 誕生花というのは、どこの誰がどういった思惑で決めたのか、どうもよくわからないが、やはり曰本フラワー協会などという業界団体があって、その販促活動の一環と捉えるのが良識というものであろう。「チョコレイト業界にはセイントバレンタインデイがある。そこで我が業界もフラワーデイといったものをつくろうではないか」「すると、八月七日、花の日、ということになりますか」「ばかばか。そんな百番煎じなことをしてどうする」「ばかじゃないもんっ」「いや、だからな、一年中、花の日にすればよいのだ」「そ、それは大胆すぎるのではっ」「ふふふふふ。奥の手があるのだ。孫の手じゃないぞ」といった展開のあげく、一日一花運動プロジェクトが発動し、誕生花に結実したのである。いや、ほんとのとこは知らないが。
 花き業界ではどうもそういうことになっているらしい。
 この方法論を採用している他の業界もきっとあるに違いない。たとえば全曰本漁業協同組合連合会といったあたりが怪しい。「誕生魚というのはどうかの」「いいですなあ」「三月五日の誕生魚はタイじゃな。魚言葉は自然美じゃ」「なぜ三月五日ですか」「儂の誕生日なんじゃ」「じゃ、九月十日の誕生魚はヒラメで、ひとつ」などとさしたる根拠もなく決めつけられ、そのうちに魚不足が生じ、「二月二十九日はシーラカンスでいっか」といった顛末に至るのである。
 商戦には絡まない親睦団体も、こういうことをやっているかもしれない。こちらは趣味が高じたあげく、そうした暴走に至る。曰本野鳥の会発行の日めくりカレンダーには、一枚一枚に誕生鳥たるツグミだのヒバリだのが記されていたりするのであろう。
 そんなふうに考えてくると、もはやなにもかもが怪しい。誕生本を密かに決めちゃっていないか、読書家のみなさん。誕生山を内緒で決めちゃっていないか、山男のみなさん。誕生電車を人知れず決めちゃっていないか、てっちゃんのみなさん。
 もしかして、本日の誕生人は織田信長で、人言葉は「是非もなし」なのではないか。本日の誕生菓子はプリンで、菓子言葉は「揺れる心」なのではないか。本日の誕生道具はバールで、道具言葉は「のようなもの」なのではないか。
 恐ろしいことである。漫然と日々を過ごしてはいられないではないか。
 誕生法、誕生映画、誕生思想。私達はどうして生きていけばいいのだろう。誕生競走馬、誕生香辛料、誕生CPU。私達は誕生してもよかったのか。誕生民族紛争、誕生テーマパーク、誕生無形文化財。私達は、私達は。
 そうして恐るべきことに、もしかして、本日、五月十三日の誕生日は、四月一日なのではないか。
 日言葉は「そんな馬鹿な」。

←前の雑文へ目次へ次の雑文へ→
バックナンバー 一覧へ混覧へ