218 99.04.05 「横目に寄せ書き」

 その女性は涙ぐんでいるのであった。なんだかもう、ひたすらに涙ぐんでいるのであった。帰途の電車の中で隣り合わせた女性である。なんとも無防備に瞳を潤ませるその女性こそが、牛山美奈22歳なのであった。実のところは22歳であるかどうかは不明なのだが、つい先頃大学を卒業したのであるから、さしたる誤差はないだろう。とある薬科大のTKCなるサークルで四年の歳月を過ごした牛山美奈は、謝恩会というのか追い出しコンパというのか、そういった宴席からの帰宅途中なのであった。
 見ず知らずの他人たる私がどのようにして彼女のそうした氏素性を知ったかといえば、彼女がバッグの中から取り出した一枚の色紙がもたらす情報を読み取ったからに他ならない。色紙を眺めながら思い出多き四年間を涙と共に振り返っている牛山美奈は、まったくもって無防備であって、その色紙を横合いから不躾な視線で眺めやる私の存在にはまったく気づいていないようであった。
 色紙中央に、「牛山先輩ありがとう」と、書いた本人はきっと凝ったつもりなのであろうところのレタリング。周囲に放射状のコメント。寄せ書きである。寄せ鍋と並んで人心を和ませてきたあの寄せ書きである。寄せ鍋と共に古来より人々の絆を深めてきたあの寄せ書きなのであった。
 たとえば、NOBUYUKIという男がその色紙上において牛山美奈との間の特別な絆を強調している。「美奈センパイとすごしたあの一夜は、けして忘れません。 NOBUYUKI」。どうしたのだ、牛山。NOBUYUKIとの間になにがあったのだ。どんな一夜だったのだ。なにか言ったらどうだ、牛山。
 しかし、牛山美奈は追憶通りを過去方面に向かって暴走中であり、涙ぐむばかりなのであった。聞く耳を持たないのであった。ま、私は何も言ってはいないが。
 言えなかったのは私だけではない。
 「ついに言えなかった。 裕二」という含蓄のあるおことばもあった。これはなかなか深い。言えなかったのか、裕二。よいではないか。言えなくてよかったこともあるのだ、裕二。言わなくてよかったことにはかなわないが、それは確かにあるのだ、裕二。
 牛山美奈は後輩の男性陣から慕われていたようであり、告白は続くのであった。「美奈先輩のうなじが好きだった。 by ひさと」。あー、ひさとくん、「by」はやめなさい「by」は。私はひさとくんの審美眼を検証すべく、色紙から牛山美奈のうなじに視線を転じた。
 うん。ひさとくん、同感だ。
 そうかと思えば、アサミなる女性の貴重な証言もあり、牛山美奈像はぼやけていくのであった。「もう、UFOをデュエットできないんですね。さみしいな。 アサミ」。甘えるなアサミ。人は‘UFO’を歌うために生きているのではないのだ。それにつけても、眼前の牛山美奈はどちらかといえばおとなしげな印象を与える女性であり、よもや頭の後ろから手を出して「ゆーふぉー」などと口走っている姿は想像できないのだが、カラオケはひとを狂わせるという風聞はやはり真実なのかもしれぬ。牛山美奈、一筋縄ではいかないようである。
 一方では、牛山美奈の人となりをまったく想起させないコメントもあった。「このトリのからあげはうまいっす。 横田」。ペンを持たせると逆上するタイプであり、この横田くんの心情はよくわかる。なにか気のきいたことを書かなくちゃという強迫観念が、彼を異次元の世界へ旅立たせるのである。色紙に残された彼の一筆は確かに間抜けだが、ねじれきった勘違いのあげくの所業なのだ。ペンを走らせている間、横田くんは「これは絶対面白い」と考えていたに違いないのである。しかし横田くん、同じ失敗をなしてきた同類が衷心から忠告するが、それはつまらないんだよ。
 とはいっても、「一期一会  YUKI」などとしたためる輩と比べれば、かなり救いようがあるから、あまり気にするな横田くんよ。ま、ちっとも気にしてないだろうが。私と同類項の横田くんというのは、そういった反省とは無縁の手合いに決まっている。
 謎めいたのもあった。「TKC三爆女も解散ですね。これからはアサミとふたりバクハツしていきます。 レイコ」。また出たかアサミ。まったくおまえという奴は。レイコも反省しなさい。
 だいたい、三爆女とはなんだ。牛山、それからアサミとレイコ、いったいそれはなんだ。肩を揺さぶって問い質したくなる衝動を、そこは私もオトナだからぐっとこらえ、三爆女と呼ばれた三人のバクハツぶりを想像し、ひとり静かに興奮するばかりなのであった。
 寄せ書きを懺悔の場として利用する者もいた。「山中湖かつおぶし事件の真犯人は、実は私なんです。美奈センパイ、ごめんなさい。 Y・N」。こらこらY・Nよ、これで最後というときに、そんなことを告白してどうする。山中湖かつおぶし事件で牛山が負った心の傷は、君が思うよりずっと深いのだぞ。って、なんだろう、山中湖かつおぶし事件とは。合宿の折の料理当番にまつわる冤罪事件であろうと察せられるところだが、どうなんだ牛山。山中湖でなにがあったのだ。誰にも言わないから、Y・Nに対して思うところがあればキタンのない意見を聞かせてはくれまいか。どうだ、牛山。
 しかし過ぎ去りし四年という時間に溺れる牛山美奈は、飽きもせずにウサギ目で涙ぐむばかりで、隣で妄想をたくましくしている不遜な輩にはやはりまったく気づいてはいなかった。しっかりしろ牛山。まだまだジンセイは長いのだぞ牛山。
 と、不意に牛山美奈が顔をあげた。ようやく、隣からの無遠慮な視線に気づいたらしい。牛山は色紙を見られた事実を即座に悟った。あわててバッグの中にしまいこんだ。
 きっ。
 と、音を立てて私を睨んだ。幻聴だが。
 知らないもんね。見えちゃっただけだもんね。無防備なあんたがいけないんだもんね。と、自己弁護をしてみたが、牛山の目つきはコワイのである。とってもとってもコワイのである。
 なんだよう、うしやまあ。睨むなよう。三爆女のくせにい。
 たじたじ、と効果音を立てながら後ずさりするばかりの私なのであった。助けてくれよ横田くん。あ、いや、君は頼りにならんな。
 そのうちに電車はどこぞの駅に停車し、もともと降りる駅だったのか車両を換えるんだかわからないが、牛山美奈は去っていった。ああ、こわかった。
 横田くんよ、卒業してよかったな、ああいう怖いセンパイは。あ、いや、君はそんなことを気にするほど繊細な奴ではなかったな。
 それにしても、トリのからあげはいただけなかったな、横田くんよ。

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