219 99.04.10 「探偵はアスピリンを二錠」

 かねてよりアスピリンとはいつかは対峙せねばならぬと考えていたのである。妙に気になる存在であった。たとえば翻訳物の探偵小説において、アスピリンはその実在性を誇示する。
 酷い宿酔いに苛まれながら目覚めたアル中の探偵は、決まってアスピリンを服用するのである。それも二錠だ。なにがどうなっているのか、とにもかくにも「アスピリンを二錠」だ。鎮痛剤とおぼしきアスピリンの適量は、大人の場合二錠なのであろう。いや、本来は一錠で充分なのだが、倍の量を要するほど酷い頭痛なのだという意味合いの常套句なのかもしれぬ。いやいや、もはや既に慣用句と化しているのであって、「アスピリンを二錠のむ」との表現は単に「宿酔いになった」と言っているだけなのかもしれぬ。
 そのへんが、かねがね気になっていたのである。アスピリン。明日のピリンである。ピリンってなんだ。アスピリン。アスピの燐である。アスピってなんだ。アスピリン。いったいおまえは何者か。
 学名アセチルサリチル酸の商品名、だったのである。一冊の国語辞典がそのように語っている。ううむ、商品名であったのか。するってえと、本邦の探偵が「覚醒は、その親友である宿酔いと共に訪れた。ノーシンを二錠のんだ。頭痛にはやっぱりノーシンだ」などと言っているようなものか。いや、そんなことをほざく探偵が創造されていたかどうかは知らないが。
 学名もなかなか味わい深い。チルチルミチル酸の仲間なのか、アセチルサリチル酸である。汗が散って去り散る、というのである。どんな宿酔いにだってボクは当たって砕け散るんだぞ、といった気概が窺える頼もしい名称である。この頭痛のことは君に任せたとすべてを委ねて、ずずずずずと焙じ茶などを啜って悔いのない天晴れな御尊名である。宿酔いなどはどうせ時間にしか解消できないのだ。その毒牙にかかった者は、治る前に再び呑み始めるかどうかしか選択できない。ならば、一時の気休めをアセチルサリチル酸に求めて、なんの不都合があろう。
 アスピリンよ、幾億の酔いどれに代わって、私は礼を述べたい。幾億もの気休めを、ありがとう。私は君の恩恵を蒙ったことはないが。
 しかし、君の素顔は気になるところである。にわか探偵と化した私は、更なる調査を試みた。ウェブブラウザを立ち上げてマウスを何度かクリックしただけだが。
 すると、バイエル薬品株式会社が立派な態度を示していることがわかった。
 「母なる自然の助け アスピリン100年  アスピリンは、こうして生まれた」などというタイムリーな企画を白日の下に曝して恬淡としているのであった。なんだかよくわからないが、えらいぞバイエル薬品株式会社。
 なんでも、本年3月6日がアスピリン生誕百周年なのだそうである。節目の年だったのである。ノストラダムスさんばかりがもてはやされるのはいかがなものかと、フェリックス・ホフマン博士は、伏し目がちに主張しているのであった。ドイツ・バイエル社のフェリックス・ホフマン博士が「純粋で安定なアスピリン(アセチルサリチル酸)の合成に成功」したのが1897年であり、その二年後にアスピリンが発売されたのであった。フェリックス、私はあんたは今になにか途方もないことをやらかすんじゃないかと思っていたよ。フェリックス、君は多くの探偵達を救っているよ。たった二錠で。あるいは、貴重な二錠で。
 百周年である。その劇的な日から百年の時が過ぎた。
 数々の百周年を見聞してきたが、これはまたなんともはや地味な中にも静かな凄みを感じさせる百周年ではあった。アスピリン生誕百年。一世紀が過ぎた。
 バイエル薬品株式会社は、バイエルアスピリンは90ヶ国以上で販売されているなどとと誇らしげで、アスピリンが登場した文学作品などを掲げて御満悦である。フォーサイス「ジャッカルの日」、チャンドラー「さらば愛しき女よ」、ダール「キス・キス」など。どれも読んだはずだが、どの場面で登場したのかまるっきり憶えていない。当たり前だが。実のところ、欧米の小説にアスピリンは登場しすぎる。スカダーもよくアスピリンのお世話になっておったな。ま、あいつはもう酒を呑んじゃいないが。
 探偵は途切れることなく出現し、その何割かが宿酔いがもたらす頭痛を解消するためにアスピリンのお世話になっている。私はバファリンがせいぜいだ。セデスやノーシンに転向してもかまわない。アスピリンを服用できないのなら、なんだって同じだ。
 アスピリン。その二錠を服用するには、どこへ行ってどうすればいいのだ。薬局へ行けばいいのだろう。探索を進めるうちに、本邦でもバイエルアスピリンは販売されている事実が判明したのである。非ピリン系だというややこしいアスピリンは、バイエル薬品株式会社がしっかりと販売しているのであった。「有効成分アセチルサリチル酸(アスピリン)が、体内で痛みや熱に関与するプロスタグランジンの合成を抑制し、1回1錠(500mg)で優れた鎮痛効果を発揮します」というのであった。バイエル薬品株式会社はそのように主張してはばからないのであった。
 むむむむ。一回一錠か。どうなっておるのだ。やっぱり探偵連中は己のタフネスを誇示するのが習い性になっている、ということか。二錠のまなきゃ俺には効かないぜ、と言っているのか。それとも民族的特質の問題なのか。コーカソイドは二錠を必要とするがモンゴロイドは一錠で充分、ということなのか。単に、錠剤の大きさが異なるのか。どうもよくわからない。
 よくわからないが、百周年である。宿酔いが頭痛をもたらす限り、アスピリンの未来は安泰である。飲酒が宿酔いをもたらす限り、アスピリンの未来は安泰である。そこに酒がある限り、アスピリンの未来は安泰なのであった。
 いや、よくわからないが。

次の雑文へ
バックナンバー一覧へ
バックナンバー混覧へ
目次へ