213 98.12.22 「二瀬ふたたび」

「ごぶさたしてます」
 小柄な女性がやって来て、ちょこんとお辞儀をした。ちょっとした立食パーティの会場である。容貌、風体その他外見上にはさしたる特徴は認められない。年齢は三十前後といったところか。
 思い出した。「なんだ、二瀬ちゃんか。どう、相変わらず赤面してる?」
 本名はまだ思い出せないが、ふたせちゃんである。逆読みの達人、二瀬ちゃんに紛れもない。
「もう」二瀬ちゃんは頬を膨らませた。「久し振りに会った人はみんながみんな、そう訊くんだから」
 そりゃ訊くだろう。二瀬ちゃんといえば、突然の赤面である。そういうことになっている。それはそれは強烈な印象である。
「で、赤面してるの?」
「してませんよ。わたしもいいトシですよ」
「逆読み能力は健在なんでしょ」
「はい。でもまあ、折り合いをつけるすべを学んだというか」
「時は流れるねえ」
「なに言ってるんですか」二瀬ちゃんは朗らかに笑った。「そういう物言い、変わりませんね」
 私に進歩はない。
 二瀬ちゃんは進歩しているようである。あれほど嫌がっていた天賦の能力と、ついに折り合いをつけたらしい。あまり役に立たない特異な才能と共存していく術を、ようやく学んだらしい。それはそれで、めでたい。
 二瀬ちゃんは、幼少の頃より、言葉にそして文字にきわめて強い関心を抱く少女であったと伝えられる。三歳にして、どちらの仮名も無理なく読み書きできたという。この種の子供の次なる行動指針はひとつしかない。目に映る文字すべてを読み上げるのである。「すごいね~。よく読めたね~」周囲の大人の賞賛を呼び、子供はますます図に乗っていくという展開に至る。
 が、しょせんは子供の所業であり、時には横書きの言葉を右から読んでしまう。「よいこ」という本がそこにあれば「こいよ」と大声で読んでしまい、慌てて飛んできた母親が「んもう、来いっていうから来てみたら、この子ったら」と嘆くといった事態を迎えるのだ。つまるところは子供だから、右も左もわからないのである。
 ある時には縦書きの言葉を下から読むといったこともする。街の看板を見上げようとすれば、子供の視線の動きは当然下から上へと這い上がる。
「コルト」
 母親は銃の名をいきなり唱える娘に驚き、次いでそれが国名でありながらも子供が発言するにはちょっと問題があるのではないか的な施設の看板であったことに気づき、やっぱり「んもう、この子ったら」と慨嘆することになるのである。
 とはいえ、幼児の二瀬ちゃんにとっては、三文字それぞれが独立した文字である。順番に読み上げたに過ぎない。そこに意味を見出さない。母親の慨嘆などはまったく気にならない。とにかく一文字ずつを実際に声に出して読み上げることこそが、自然な行為なのである。右からでも左からでも、かまわない。上からでも下からでも、気にしない。そこに文字があれば、幼児の二瀬ちゃんは一文字ずつ読み上げるのであった。
 そうした数々の体験を経て、小学生になった二瀬ちゃんはあるとき卒然と気づいたのである。「ほかのひとは、逆から読むことが苦手なのだ」と。二瀬ちゃんはどちらからでも読める。実のところ、逆から読んでいるという意識はない。意味が汲み取れるほうが普通の読み方なのだろう程度の認識しかない。どちらからでも自在に読める。文字の連なりには二通りの読み方があって、どちらもほぼ同時に読み取れる。二瀬ちゃんの頭脳には、いつしかそうした特異な能力が形成されていたのであった。
 特異は得意につながっていく。自分にしかできないことを発見したとき、その技能の向上に熱中するのは、わかりやすい道理である。二瀬ちゃんは逆読みに夢中になった。
 確かに最初は意識的だった。しかし、この類の訓練は苦にならないものである。なにより、本人に訓練などという認識が希薄である。たちまち身についた。ことさらに意識しなくても、自然にできるようになった。もはや、どちらかだけを意識的に取捨選択はできない。あらゆる言葉は、二通りに読まれなければならなかった。
 単語ばかりではない。一連の文章であっても、その能力は発揮される。二瀬ちゃんの脳裡においては、ほぼ文節単位で逆読みがなされる。「むかし(しかむ)むかし(しかむ)あるところに(にろことるあ)、おじいさんと(とんさいじお)おばあさんが(がんさあばお)すんで(でんす)いました(たしまい)」二瀬ちゃんの言語解釈回路は二手に分かれ、ほとんど同時にふたつの処理をなす。逆読みの方がカウンターメロディのように響くもののようである。たとえば、往年のフォークコンサートで歌い手が観客に合唱を促すような趣きらしい。「(いのちかけてと)いの~ち、かけてと~、(ちかったひから)ちか~った~、ひから~」といったところか。二瀬ちゃんの場合は、括弧内が逆読みで処理されるのである。
 そうした次第で、記された文字だけではなく、話し言葉に対しても同様の機能が働く二瀬ちゃんの言語中枢なのであった。「はやく(くやは)おきなさい(いさなきお)」との母親の声で目覚め、一日が逆読みの洪水で過ぎていく。
 そうした逆読み能力を有する人物にとっては、世の中は雑音だらけである。逆読みされる言葉のほとんどが、意味をなさない。雑音は、たいがいの場合騒がしいだけである。その事実を実感したとき、二瀬ちゃんは激しい後悔に苛まれた。まったくもって、不要な能力だったことに気づいたのである。まず、書物を愉しむことができない。テレビもラジオもうるさすぎる。邦楽は聞くに堪えない。
 日本語は、騒がしすぎた。二瀬ちゃんは、洋楽に逃避し、英語に安らぎを求めた。もとより語学のセンスは抜きん出ているうえに、そこにしか安寧はなかった。二瀬ちゃんは、またもや熱中した。たちまち英検一級の御取得である。
 二瀬ちゃんにも思春期は訪れた。そこに至る過程で、様々な言葉を憶えてきた。が、自然に逆読みされるそれらの言葉の大半は、単なる音の響きに過ぎないのであって、なにかしらの意味を伝えることはない。つまりは、雑音である。
 が、稀に意味をなす場合がある。たとえば「コンマ」というありきたりな単語が、二瀬ちゃんを著しく動揺させるのであった。二瀬ちゃんは関東に居住していたため、その逆読みには赤面せざるを得ないのであった。
 我々が二瀬ちゃんと出会ったのは、二瀬ちゃんが学業を終え就職した場においてである。ほどなくして、二瀬ちゃんの特異な能力は知れ渡った。いきおい二瀬ちゃんの周囲には「コンマ」という単語が声高に飛び交うのであった。セクハラそのものである。特になんということもない言葉に著しい反応を示す二瀬ちゃんが、面白いのであった。淫語辞典などをひもとき、逆から読むと意味の通る言葉はないかと探しまくる者まで現れた。つまるところ、二瀬ちゃんの赤面が面白かったわけである。この方程式を整理すると、赤が白かったのである。
 とはいえ、ただただからかっていたわけではない。同情論もあった。
「しかし、その半分が意味をなさないとはいえ、二倍の情報が押し寄せてくる体質というのは、これはかなり辛いのではないか」
「ただでさえ騒がしい世間が、二倍騒がしいのだからな」
「そういうの、あったな」
「逆テレパスか」
「七瀬だな」
「それほどのもんではなかろう」
「七まではいかんな。二くらいじゃないか」
「うむ。そんなものだな」
「二瀬か」
「二瀬だ」
「うむ」
 即ち、二瀬ちゃん誕生秘話である。
 やがて、留学するために二瀬ちゃんは退社していった。二瀬ちゃんにとって、この列島は騒がしすぎるのであった。
 一時帰国した折に、ちょうどパーティが催されるというのでやってきた、という。
「でもね、日本への帰国はもう最後なんです」
「ほへ?」
「今度は日本から帰国するんですよ」
「はにゃ?」
 二瀬ちゃんと私が話し込んでいるところへ、二瀬と命名した面々がいつのまにか集まってきた。そもそもが、そのあたりの顔触れが集りがちなパーティなのであった。
 やはり「コンマ」という単語が頻発するが、年功を経た二瀬ちゃんは、もはやにこにこして聞き流すばかりである。そうして、重大発言をなすのであった。
「やっと、永住権が取れたんです」
「おお」一同はどよめいた。次いで、拍手が湧いた。
 なるほど。そうであったか。二瀬ちゃんは、逆読みの呪縛から、ついに解放されるらしい。
「そりゃ、よかった」
「おめでとう」
 みんな、当時の二瀬ちゃんの苦悩を知っているだけに、祝福の言葉が次々に二瀬ちゃんの浴びせられた。
「そりゃ(りゃそ)、よかった(たかっよ)」
「おめでとう(うとでめお)」
 と、二瀬ちゃんは聞いているのであるが。
 送別会をしよう、と、話はすかさずまとまった。パーティ終了後、一同は一度目の送別会をした店になだれこんだ。一度目とは、退社して留学していく二瀬ちゃんを見送った時である。
 ふたたび、二瀬ちゃんを送り出すのである。一度目は綿密に口裏を合わせたが、二度目ともなれば数年の時を経たとはいえ、たやすく唱和できる一同なのであった。つまり、二瀬ちゃんのための乾杯の音頭というものである。
「いぱんか!」

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