205 98.11.04 「諌言される」

「いるか?」
 森崎某というのは私の友人であり、数多くの欠点を有していることでこの界隈では知らぬ者はないが、私の部屋に勝手にずかずかとあがりこんでくる性癖は、特にいかがなものかと思われる。いるよ、と返事をする暇もない。あまつさえ、なんの承諾も得ずに冷蔵庫から缶ビールを取り出す悪癖は、更にいかがなものかと思えてならない。
「今夜は、お前を諌めに来た」
 ぷしり、と森崎某は缶を開けた。
「氷雨?」
 と、一応かるくボケてみた。
「おいおい。日野美歌じゃないって」ぐびり。「あ、しまった。つい反射的にオーソドックスなツッコミをしてしまった。反省」ぐびり。
 反省するほどのことなのであろうか。
「だからな、諌めに来たのだ。諌言だ」
「ほほう」
 私もついに諌められるときが来たか。年貢の諌め時というやつか。おいおい、違うって。などと、ひとり内心で漫談を繰り広げていると、森崎某は演技を過剰に滲ませた沈痛な面持ちというものをつくるのであった。
「最近、お前についてよからぬ噂を聞いた」
 と、森崎某は語り始めるのであった。こりゃまた諌言の常道的イントロである。よからぬ噂、である。なにかたいへんに甘美な響きである。しかし、どの噂だろう。多すぎて見当がつかない。
「こないだ、お前は新潟に行ったな」
「行った」
「そのしばらく前には、函館に行ったな」
「行った」
「そのまたしばらく前には、金沢に行ったな」
「それは行ってないぞ」
「ふうむ。正直に答えておるようだな。感心かんしん」
 森崎某は満足気ににんまりと笑みを浮かべるのであった。なんだろう。訊問しているのであろうか。諌言するんじゃなかったのか。
「旅先で宴会があったはずだ。新鮮な魚介が並んだと聞いている」
 聞いている、ってなあ。
「いずれも、食膳にカニの姿があったはずだ」
「あったなあ」
「たいへん大きなカニがまるごと一匹、その足先が食膳をはみだすほどの威容を放っていたというではないか」
「そうだったかな」
 いちいちそんなことは憶えちゃいないのであるが、確かにカニはあった。人様のカネで飲み食いしているので、そういうものも現れるのである。身銭を切っていたなら金輪際カニといったものは私の目の前には出現しない。
「そうだったのだ。すでに調べがついておるのだ」
 と、森崎某は断言するのであった。調べたのかあ。暇だなあ。まだ諌言しないのかなあ。ほんとは讒言したいんじゃないかなあ。
「しかるに貴様は、そのカニにいっさい手をつけなかったというではないか」
「いかにも」
「イカじゃない。カニだ」
「かににも」
「なぜだ」
 森崎某は詰問するのであった。なぜだ、と訊かれても、答えようがない。
「なぜ食わなかったかと訊いている」
 なおも森崎某は食い下がるのであった。
「だって、オレがカニを食わないの、おまえ知ってるだろ」
「知っているが、嫌いなわけではないではないか」
「そりゃそうだが」
「だったら、食え」
「他にうまそうなものがあったしなあ。なにもわざわざカニを食うこともないかなあ、と」
「そこがいかん」
 おお。諌言か。これが諌言なのか。
「いかん、と決めつけられてもなあ。カニには興味ないし」
「そこがいかんと言っておるのだあっ」
 そんな大声ださなくても。
「それで世間様にどう顔向けするつもりだ」
「大袈裟な話になってきたな。しょうがないだろ、好きじゃないんだから」
「ほれほれ、そこだ、そこがいかん。好き嫌いはない、好きなものと好きじゃないものしかない、そういうおまえの態度がいかん、と諌めておるのだ」
 諌められておるのであった。
「そういう態度はまずいのか」
「まずい。よくない。いかん」
「そうなのか」
「そうなのだ」
 よくわからん。嫌うのは、疲れるではないか。興味のないものに注ぐ無駄なエネルギーは持ち合わせてはいないのだが。
「おまえ、最近カニ食ってないのか」
 私としては、そう訊かざるをえない。森崎某の執拗さは度を越えている。
 またもや勝手に持ち出した二本目の缶ビールを開けながら、森崎某はうなずくのであった。
「もちろんそういう嫉妬が根底にあるのだが、いまはひとりの友垣として、貴様の行く末を憂慮していることになっているのだから、その話はやめろ」ぐびり。
 正直、と呼ぶにはいささか躊躇せざるをえないひたむきな反応である。屈折が屈折を重ねて、直線となった瞬間であったのかもしれない。
「やめろというならしないが、それでオレはどうすればよいのだ」
「俺のありがたい諌言を受けて反省すればよいのだ」
「オレが悪かった」
「こらこら、そんなにすぐに反省してはいかん。ドラマがないではないか。せっかくひとが気持ちよく諌めておるというのに、その態度はなんだ」
「どうすりゃいいのよオレは」
「俺にカニを奢れ」
 それが森崎某の結論のようであった。
「日野美歌は、今頃どうしてるのかな」
 私は、はぐらかしてみた。森崎某は、はぐらかされなかった。
「うまいカニを食っているのだ。そうに決まっている。だから、奢れ」
「奢れる者は久しからず、と言うが」
「言わない」
 日野美歌さん、食ってないよね、うまいカニ。
 なぜなら、全てのカニはうまくもまずくもないのだから。

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